昨年8月には能登の被災地を訪れた。その時点ではどんな話を書くかは決めていなかったという。
「自分の本や絵本、漫画の寄付についても考えましたが、本は生活必需品ではないし、むしろ邪魔になるのではと思っていました。でも、いくつかの書店を訪れて、営業再開した時に多くの人が喜んでいたという話を聞いて、本の力を痛感しました。能登はいまだ大変な状況ですが、地元の方々は少しずつ元の生活を取り戻そうとしています。そこで、書籍による経済的支援もひとつの力になるのではと感じました。こういうときは長く愛され、記録として残る小説の出番だとも思いました」
そうして書き上げた「そこをみあげる」は本書の冒頭に掲載されている。
特殊詐欺を行った主人公が警察から逃げて輪島の復興ボランティアを隠れ蓑にする。そこで山の中に打ち捨てられた船を見つけて……という話だ。舞台は輪島、内容も被災地の状況を真正面から描いている。
「どういう話にするか、刻々と変わる能登の状況をどのタイミングで描くか、被災した方々の思いを大切にしつつ、全国の読者にも読んでもらえるようにと考えるのは非常に難しかったです。誠実に書くことが大切だと感じていましたが、書きすぎて残酷さが増すことがないように調整することも重要でした。被災者が傷つかず、不快な思いをせずに楽しんでもらえる内容にすることは難しかったです」
本でしかできない体験
「そこをみあげる」というタイトルは書く前に決めた。
「船の話にすることはすでに決めていました。船底は座礁するか引き上げない限り見ることはない。見られても見上げることはないんです。さらに『そこ』という言葉にはどん底という意味もあり、ひらがなの『そこ』はその場所を指すこともあります。このタイトルにはそうしたさまざまな意味が込められていて、面白いと思いました」
表紙のアイデアも提案した。輪島塗からインスピレーションを受けた絵をアルコールインクアートで自ら描いた絵が表紙に採用されている。
「アルコールインクアートは液体が滲んでいくため、コントロールが難しいですが、素人でもそれなりに形になります。そのコントロールできない部分に思いを込めました。輪島の復興を願って作るアクションペインティングのような感じです。表紙を見て『かっこいいね』『美しいね』『面白そう』と単純な動機で手に取ってもらえる方が絶対に良いんです。抽象的でありながら思いを込めたデザインになったと思います」