いよいよ盛夏へ向かう文月。7月9日と10日の2日間、東京都台東区の浅草寺ではほおずき市が開催され、賑わいをみせます。「四万六千日」の縁日にちなんで開かれるほおずき市。この日に浅草寺で参拝すると、なんと4万6000日分のご利益があると言われています。何故これほど有り難い日が設けられたのでしょう?その由来について紐解いてみましょうか。

夏の風物詩です
夏の風物詩です

浅草寺の由来は飛鳥時代から。時を超えた観音信仰の場

そもそも、浅草寺が都内最古の寺院であることはご存知でしょうか?その縁起は、飛鳥時代に遡ります。推古 36 (628) 年、江戸浦(隅田川)で漁師の兄弟が、引き上げた観音像を河畔に祀ったのが始まりと伝えられています。その後大化元年(645)年、海勝上人(しょうかいしょうにん)が観音堂を建立し、開山となりました。
浅草寺には、のちの平安時代に慈覚大師が寺塔を増築。以降源頼朝、足利尊氏、太田道灌など、武将たちの篤い帰依を受けるたびに寺領塔堂が加えられ、金帛調度を増していきます。そして徳川家康によって幕府の祈願所と定められてからは、江戸庶民の人気スポットとして大きく繁栄。その人気は平成の今も全く衰えず、その昔に武蔵野の一画、東京湾の入江の一漁村だった浅草は、世界中から訪れる観光客の参拝の場となりました。

長い歴史を誇ります
長い歴史を誇ります

四万六千日(しまんろくせんにち)参拝とは

浅草寺のご本尊は観世音菩薩で、「浅草観音」として親しまれています。一般的に観音さまの縁日は毎月18日ですが、これとは別に室町時代以降、「功徳日(くどくび)」と呼ばれる縁日が新たに加えられました。月に一日設けられた功徳日に参拝すると、百日分、千日分の参拝に相当するご利益(功徳)が得られるとされたのです。中でも7月10日が、功徳が千日分と最も多い「千日詣り」。浅草寺でも江戸時代の記録を見ると、元禄年間(1688-1704)では「七月十日、観音千日参」のままでした。
しかしその後享保年間(1716-1736)には、浅草寺で7月10日が「四万六千日」と呼ばれた記録があり、そのご利益が4万6000日分(約126年分)に相当するといわれるようになっています。享和3(1803)年刊行の『増補江戸年中行事』には、「七月十日観音四万六千日、浅草は両日共に昼夜をわかたず、貴賤群衆する事、殊におびただし」と残されています。尚、四万六千日の数については「米一升分の米粒の数が46,000粒にあたり、一升と一生をかけた」など諸説ありますが、定説はないそうです。
元禄から享保の数十年の間に千日が四万六千日へと画期的に増幅されていることも愉快ですが、そのお参りが享和への数十年の間にますます賑わいを見せ、その後二百年以上経った今も、老若男女が集う同じ光景を現している浅草寺。この存在自体がまさに時を超えた、ありがたい功徳といえるかもしれません。

両日とも夜まで賑わいます
両日とも夜まで賑わいます

お参りのあとはほおずきの色や風鈴の音を楽しんで

せっかちな江戸っ子は、7月10日に一番乗りで参拝したいと考えたのでしょう。前日の9日から人出が多くなり、7月9・10日の両日が四万六千日の縁日と受け止められるようになりました。そしてこの両日には縁日にちなんで、ほおずき市が開かれます。
ほおずき市はもともと、芝の愛宕神社が発祥の地でした。愛宕神社境内で自生していたほおづきを飲めば子供の癇・婦人病に効くと言われ、「霊験あらたかな愛宕のほおづき」を並べた市が、千日詣りの日に立っていました。
やがて「四万六千日ならば浅草寺が本家本元」とされてほおずき市が浅草寺境内でも開かれるようになり、愛宕神社をしのぎ盛大になったと伝えられています。これには、明暦の大火の後、1657年に、吉原遊郭が浅草寺奥の山谷地区に移転された影響もあるのではないでしょうか。浅草は、聖俗隣り合わせの一大繁華街となったのです。
江戸時代には、文化年間(1804-18)以後に「雷除(かみなりよけ)」として赤とうもろこしも売られていましたが、その後寺方では、「雷除守護」の札を出して評判になりました。今も四万六千日の両日のみ、「雷除」やのお札や祈祷札「黄札」が浅草寺から特別に授与されます。参拝の際には「南無観世音菩薩」とお唱えしましょう。お参りのあとは、夜まで賑わう境内に約100軒並ぶというほおずきの露店や、浅草のそぞろ歩きを楽しみましょう。浴衣で繰り出すのも粋ですね。
参考文献:
松本 和也 (著)『台東区史跡散歩 (東京史跡ガイド)』學生社(1992/06)
矢田 挿雲 (著)『江戸から東京へ 第2巻 浅草(上) 』中央公論社(1975/04)
大石 学 (編集)『大江戸まるわかり事典 単行本』時事通信社 (2005/06)

今年こそ浴衣で浅草散歩を
今年こそ浴衣で浅草散歩を