苦しいときでも、宮妃としての品位を失わなかったのが百合子さまだと、工藤さんは言う。
終戦の翌年、長男の寛仁さまが生まれた。大変な生活は続いていたが、百合子さまはそのときの心境を工藤さんにこう表現したという。
「むき卵のような、きれいな赤ちゃま(赤ちゃん)でいらっしゃいました」
工藤さんは、百合子さまの口から語られる言葉の美しさと、なんともゆったりとした独特のテンポが強く印象に残っていると話す。
「皇室に伝わる伝統や文化を、最もよくご存じであった方。戦前まで使われていた『御所言葉』を現在まできちんとお話しになれたのは、百合子さまだけであったと思います。つねに美しい日本語をお使いになる方でした」
「家内は私の“前見人”」と三笠宮さま
三笠宮さまと百合子さまは、戦後の苦しい時期を、おふたりで支え合って乗り越えてきた。それだけに仲睦まじいご夫婦だったと、工藤さんは振り返る。
夫の三笠宮さまは戦後、国民にレクリエーションが必要だと考え、百合子さまとともにダンスの普及に力を注ぎ、ご夫妻で社交ダンスや4組のカップルが隊列を組むスクエアダンスを習っていた。
三笠宮さまのおそばにはいつも百合子さまのお姿があり、お年を召してから始めた日本舞踊も二人三脚だった、と振り返る。
三笠宮さまは工藤さんに、
「よく世間では、後見人という言葉があるでしょう。でも、うちの家内は“前見人”なんですよ」
と、話していたという。意味が分からず聞き返すと、
「私が踊るときに、扇の持ち方や正しい振りができているかを、家内が前方から見てアドバイスしてくれるんだ。だから、家内は私の前見人なんだよ」
と、傍らの百合子さまを見て、にっこりと笑っていた。
三笠宮さまは、何か話すときは決まって、「そうだよね」というふうに百合子さまのお顔を見て確認されていたという。
工藤さんがインタビューを終えると、ご夫妻は玄関まで足を運び、
「それではお気をつけて」
と、お辞儀とともに工藤さんを見送った。門まで歩いてふと玄関を振り返ると、ご夫妻はそのまま玄関で、工藤さんを見送っていたという。
「お優しい方だなあと、胸が熱くなりました。いまごろは、三笠宮さまとおふたり、仲睦まじくダンスを楽しんでいらっしゃる。そんなおふたりの姿が目に浮かびます」
(AERA dot.編集部・永井貴子)