「風来坊」から届いたリハビリ姿の写真と「不屈の闘魂」の言葉
すると、近づいてきて、ベッドの横に座って「あまり具合がよくないのか」と問いかけてきた。毎晩、泣いているのに気づき、心配してくれたらしい。なぜか分からないが、堰を切ったように、誰にも話したことがない体験や思いを話す。富松さんは相槌を打ちながら、最後まで聞いてくれた。話が終わると、静かな口調で言った。
「きみは、ちゃんと登り切った先の景色をみたのかい、やれるだけのことをやったのか?」
目が覚める思いがするというのは、こういうことだろう。リハビリを始めて、まだ3カ月。「歩けるようになりたい」と思ってきた年月に比べれば、すべてを諦めるには短過ぎる。富松さんの言葉を胸に納め、本気でリハビリに向かった。退院しても、続けた。垣内俊哉さんが中津川市で父母と過ごし、様々な体験から蓄えたビジネスパーソンとしての『源流』の水源が、流れになって動き始める。
手術から10カ月後、自分の足で歩くことは脇に置き、「障害がある人たちの役に立つ会社をつくろう」と進路を定め、高校へは戻らず、大学受験の資格を得る試験を目指す。
この間、あるときに封書が届く。差出人の住所はなく、ただ「風来坊」とある。開けると、手紙と写真が出てきた。写真は病院でリハビリに取り組んでいたときの姿。「風来坊」は富松さんだ、と分かる。「不屈の闘魂」との言葉も添えてあった手紙は宝物、大事に取ってある。
1989年4月、母の実家がある愛知県安城市で生まれ、父の故郷の中津川市で育つ。生後1カ月で骨形成不全症が判明。3歳のときに初めて歩き、母は涙が止まらなかった、という。
富松さんの言葉で気持ちを立て直し、大学受験の資格を得ると、京都市に本部を置く立命館大学の経営学部を目指す。いくつか大学を調べると、同大学はキャンパスや周囲に、障害者にとってのバリアが少なかった。