『中野「薬師湯」雑記帳』

朝日文庫より発売中

 朝日新聞出版に勤めるK氏からの執筆依頼は、秋の終わりにやってきた。紹介はデビュー作を担当してもらって以来、ずっと世話になっているS社の編集者A氏だった。

「上田さんに連絡を取りたいという他社様の編集者がいらっしゃるのですが、いかがいたしましょう」

 その相談に、私は少なからず驚きを覚えた。業界として共同歩調で当たらなければならない分野ならさておき、駆け出しとはいえ、シリーズものを執筆させている作家に、他社で書く機会を与えるとの発想が意外だった。

「私にとってはありがたい話で断る理由はありませんが、Aさんに迷惑がかかるのではありませんか?」

 私は恐る恐る尋ねた。ひと回り以上年下だが、知命を過ぎてやっと世に出た私にとって、彼は師匠のような存在だ。

「ええ、上田さんにとって良い話だと思いますので」

 電話の向こうの彼は朗らかな口調で答えた。聞けばA氏の上司が、K氏の元同僚だそうで、「良い方だと上司も言ってます」とのことだった。

 連絡先の開示をOKする旨の返事をすると、三十分と経たずにK氏からメールが届いた。それには「ご執筆の方向性などについて一度お会いして打合せをしませんか?」といった趣旨の言葉が記されていた。

 コロナ禍にデビューした私は、編集者との打合せはもっぱらWebで行なっており、いきなり会うという提案に少なからず躊躇した。けれど、コロナ前はそれが当たり前だった訳で当惑する自分に呆れてもいた。それぐらいコロナという流行り病は私たちの習慣を変えてしまったのだ。

 了解する旨を送ると、K氏は新宿にある喫茶店を指定し「目印として机の上に上田さんの本を置いておきます」と書き添えたメールを返してきた。本を目印に待ち合わせをするなんて、ちょっとした探偵小説みたいだなと思いながら喫茶店の扉を押したことをよく覚えている。

 もっとも探偵小説であれば依頼人は少し陰のある妙齢の美しい女性で、「最近、誰かにつけられているような気がするの」などと呟いたりするのだが、K氏は私と同世代の男性で、話の内容は執筆依頼に関する事柄ばかりと、危険な香りはまったくしなかった。

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