いっとき彼がよく口にしていた成功則に「マイナーなことをメジャーでやる」というものがある。これは元々、ザ・タイガースをデビューに導いた内田裕也さんの言葉のようだが、1970年代から1980年代前半の全盛期をプロデューサーとして支えた加瀬邦彦さんや、1973年以来、多くの衣装やアートディレクションを手がけた早川タケジさんもおそらく同じ発想の持ち主だったように思う。"まな板の上の鯉"のように彼らの演出を受け入れ、自分のものとして成功できた沢田さんが、経験を元に体得した感覚なのだ。
日本の芸能界の売り方には正攻法がある。清潔なイメージを大切にし、いつもにこやかに自己主張はせず、ファッションは流行を捉えてはいるが、最先端を切り開くというより、その半歩後ろをいく、見方によっては無難な路線という感じだ。芸術や表現を追求しても万人に受け入れられるとは限らないので、効率よくタレントをマネジメントする上では致し方ない方針なのだが、沢田さんがソロデビュー以降に歩んできた道はそれとは正反対のものだった。
記録以上の生々しい記憶に残る理由
まだ男性が化粧することへの偏見が強かった時代にフルメイクでブラウン管に現れ、きわどい衣装を身にまとったかと思いきやPARCOのメディアキャンペーンではフルヌードを披露し、ライブではマナーを守らないファンに感情むき出しでかみついた。音楽性の面でもネオ・ロカビリー、ニューロマンティックといった欧米最新流行の要素を取り入れ、ブレイク前の佐野元春や大澤誉志幸ら新世代の才能を積極的に起用。冒険に冒険を重ねた上で、ソロ歌手としてシングル総売上歴代1位(1982年~1991年)という結果もおさめてきた。まだ大衆に知られていない流行の第一線に踏み込み、それをメディアを通して紹介したインパクトは記録以上に生々しく記憶にも残っていることと思う。