本連載の第20回目でも書いたことだが、ファースト・ソロ『エリック・クラプトン』に取り組んでいた24歳のクラプトンは、プロデュースを依頼したディレイニー・ブラムレットから、オクラホマ出身のJ.J.ケイルというシンガー・ソングライターを教えられている(リオン・ラッセルやベース奏者カール・レイドルとは同郷)。当時はまだ無名の存在だったが、なにか、とてつもなく大きな閃きのようなものを感じた彼は、ケイルの《アフター・ミッドナイト》をそのアルバムに収めた。結局、クラプトン版《アフター・ミッドナイト》は彼にとって初ヒットとなり、結果的にそれが、ケイルにメジャー・デビューの機会を与えることともなったのだった。
それがきっかけで二人の歩む道が本格的な形で交差するということはなかったが、その後もクラプトンは、《コケイン》などケイルの曲をしばしば取り上げ、また、《レイ・ダウン・サリー》など、明らかに彼を意識したものと思われる曲をいくつか残してきた。仙人的イメージを漂わせながら、シンプルだが奥の深い曲を書き、歌うケイルにクラプトンは、自分にはないもの、欠けているものを感じた。憧れた。そして、一方的にその気持ちを表明しつづけてきた。そういうことなのだろう。
そのようにして長い時が流れていったわけだが、21世紀を迎えたころ、二人は急接近している。04年6月、第1回クロスローズ・ギター・フェスティバルにクラプトンはケイルを招き、そこでの共演をDVDにも収めたのだ。「今やっておかなければ」という想いもあったのだろう。その後、二人は本格的なジョイントの可能性や、実現した場合の方向性などについて話しあうようになり、それが06年秋発表の『ザ・ロード・トゥ・エスコンディード』でついに実を結んだのだった。《アフター・ミッドナイト》の伝説的エピソードから、じつに36年もの歳月が流れたことになる。
タイトルにあるエスコンディード(カリフォルニア州南部)は、ケイルがいわゆる終の住処を構えた土地。そこからも伝わってくることだが、名義を、B.B.キングとの作品と同様に「J.J.ケイル&エリック・クラプトン」とし、14曲のうち11曲をケイルの曲で固めるなど、クラプトンはあらゆる面で「適わない人」への深い敬愛の念を表明していた。「あまり大袈裟な表現はしたくないが」などと前置きしたうえで、「これこそ、ぜひとも成し遂げたいと望んできたこと」とも語っている。
『ザ・ロード・トゥ・エスコンディード』には、すでにクラプトン・プロジェクトのレギュラー・メンバーとなっていたドイル・ブラムホールⅡ、ジョン・メイヤー、カントリー界を代表するテレキャスターの名手ヴィンス・ギル、そしてあのデレク・トラックスが参加している。『バック・ホーム』完成後のインタビューで「デレクを次のツアーに迎えたい」という極秘プランを聞いていたのだが、どうやらこのアルバムのレコーディングが小手調べ的なセッションとなったようだ。もちろん手応えは、予想以上のものであったはず。そして、そこから彼は、トリプル・ギター編成による2006年のワールド・ツアーへと歩を進めていったのである。[次回7/29(水)更新予定]