8月25日の中日対DeNAで、中日の左腕・近藤廉が2対8とリードされた9回に敗戦処理登板。打者16人に8安打、5四死球を許し、1イニング10失点を記録した。にもかかわらず、立浪和義監督が最後まで投げさせたことから、「晒し投げ」がトレンドワードに。過去にも炎上した投手にこの種の懲罰的続投を命じた監督は何人かいるが、晒し投げは、はたして投手の成長やチームの躍進につながっているのだろうか?
晒し投げが結果的に後の好成績につながったと言えそうなケースが、ダイエー時代の王貞治監督だ。
1998年6月25日の日本ハム戦、ダイエーの先発・田之上慶三郎は初回、ブルックスに満塁弾を浴び、いきなり4失点。2、3回にも1点ずつを失い、ピリッとしない。
すると、王監督は「いくら点を取られても、田之上を完投させる」と宣言し、ブルペンのリリーフ陣にも「肩を作る必要はない」と命じた。ドラフト外入団から7年かけて1軍に這い上がり、前年の97年にプロ初勝利を挙げたものの、なかなか“未完の大器”から脱皮できない9年目右腕にお灸をすえた形だ。
だが、孤立無援の完投指令で開き直った田之上は、次の4回をゼロで抑え、負の連鎖を自力でストップする。
そして5回、ダイエーが2点を返して3対6と追い上げると、王監督は前言を撤回し、篠原貴行をリリーフに送った。毎回失点を止めることによって、直後の味方の反撃を呼び込んだという意味では、晒し投げは吉と出た。
同年は登板8試合、0勝1敗に終わった田之上だが、チームが2連覇を達成した2000年に8勝を挙げてブレイク。翌01年も13勝7敗とエース級の働きを見せ、最高勝率のタイトルを獲得した。
ちなみに00年に69試合に登板し、9勝1セーブを記録した吉田修司も、巨人時代の1994年5月13日の横浜戦で1イニング10失点の晒し投げを経験しているが、“未完のドラ1左腕”は、ダイエー移籍後にリリーフエースとして開花。99年、03年も含めて3度のVに貢献している。