皇居はもともと江戸城。周辺には大名屋敷が点在していた
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 東京を散歩していると、意外にも都心の至るところに広大な緑地や大学施設が広がっていることがわかる。日本一地価が高く、日本一人口が集中している東京の中心部に、なぜ?という疑問を持つ人は少なくないだろう。

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 刊行されたばかりのガイドブック『ハレ旅東京24-25年』は、ハリー・ポッターの体験型施設「スタジオツアー東京」のほか、続々誕生する新名所やグルメなどの話題スポットを徹底解剖しつつ、「歴史うんちく」も紹介。冒頭の疑問に答えている。東京のど真ん中に数多く存在する緑の癒やし空間は、実は3代将軍徳川家光の施策「参勤交代」の賜物(たまもの)だったという。

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 都心に点在する広大な公園や大学のキャンパスは、その多くが、もともと江戸時代の大名のお屋敷用の土地だった。3代将軍家光の時に制定された参勤交代制度のために、大名は領国と江戸両方に屋敷を持つ必要があり、多くの場合、それらの土地は各藩に幕府から与えられた。つまり大名の私有地ではなく、江戸幕府から屋敷用に提供されたものだった。広さは藩の石高に比例して決まり、家格の高い者は江戸城の近くに屋敷を持つことができた。

 また、多くの大名は江戸に複数の屋敷を持っていた。江戸滞在中の本拠地で、家族も住み、江戸における政治・外交・経済の拠点となる所は「上屋敷」と呼ばれ、江戸城に一番近い場所。上屋敷の控えで、隠居した藩主などが住んでいた所が「中屋敷」。主に別邸として使われ、庭園が造られたこともあった「下屋敷」は、江戸城から離れた郊外にあった。

 ほとんどの家臣は中屋敷や下屋敷の中に造られた長屋で暮らしていた。「上屋敷」しか持たない大名もいたが、力のある大名の中には、幕府から提供された土地以外に、自前で購入した土地に屋敷を建てていた者もいる。

 明治維新の際、徳川家は江戸城を明け渡すだけでなく、大名屋敷に充てられていた土地も明治政府に返納した。東京の中心部、江戸城(今の皇居)周辺に、意外なほど広い土地がいくつもあるのはそのためだ。返納された土地はさまざまな用途に使われ、なかには細かく分割されたものもあるが、広大なまま現代の東京に存在している敷地もある。その一部を紹介しよう。

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