職人と同じレベルの知識を持たないと、この世界を渡り歩いていけないと思い、国内、中国の工場に何度も出向いては、ものづくりの現場を注視した。それでも、素人の域を抜けることはなかなかできなかった。

 09年に、京都の自社工場の工場長を任された。ここで転機が訪れた。3Dプリンターが台頭し、簡単に折りたたんだ状態、開いた状態、色々な角度のテストができるようになり、頭に思い描いてきた傘を次々と開発した。ここでの経験が、後のヒット作を生み出す力になった。

 それでも、実際に発売に至ったとしても、10作って一つか、二つ売れるかの世界だ。既存の販路が減少するなか、新規部署の発足を任され、今まで取引のなかった大型雑貨専門店にプレゼンするも、バイヤーの目にとまることはなかった。自社ブランドの確立が必須だった。目をつけたのが、文房具のブランドとのコラボだった。これが当たり、開発が加速した。

「傘はネガティブなシーンで使うことが多い。それをポジティブなものにしたい」と、次は日傘にも挑戦。断熱材を入れて、より涼しさを感じる工夫をした。

 夢は、熱中症対策として、日本中の男性に開発した日傘を使ってもらうことだ。(ライター・米澤伸子)

AERA 2023年9月11日号

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