そのような根源的な物語は作家性がどうだとか、興行的な見通しがどうだとかいうのとは違うレベルで語り継がれねばならない。あるいは宮崎駿もこのオイディプスの物語をいつか語らなければ作家として気持ちが片づかないと思って「最後の作品」にその主題を選んだのかもしれない。
映画を観て、多くの観客はこれまで宮崎駿が「母親」を描かなかったことに気がついたと思う。ナウシカももののけ姫も母がいない。「となりのトトロ」のサツキとメイの母は入院している。「魔女の宅急便」のキキの母も「千と千尋の神隠し」の千尋の母も開幕早々に姿を消す。少年たちの場合はもっと徹底している。「もののけ姫」のアシタカにも、「天空の城ラピュタ」のパズーにも、「ハウルの動く城」のハウルにも、まったく母親の影はない。
思えば「母をたずねて三千里」が宮崎監督の初期を代表する作品だった。だとすると、監督はそのキャリアの「最初と最後」で「母を探す旅」を描いたことになる。一度開いた「かっこ」はただしく封印されなければならないということなのかもしれない。
※AERA 2023年9月4日号