台北で始めた「赤ペン先生」(写真:本人提供)

 住宅メーカーの調査・分析を約2年やり、営業担当者に仮説通り動いてもらい、検証を重ねた。そうした作業の成果が出てくると、面白くなる。「仕事は頑張るのではなく、面白さを知って楽しむ」。此本臣吾さんが鎌倉時代に体得した、ビジネスパーソンとしての『源流』だ。

10年後に後輩の手本になった自分のリポート

 会社は88年、同じ野村証券グループの野村コンピュータシステムと合併し、システム構築とコンサルが2大業務になっていく。住宅メーカーへ出したリポートは、10年後に後輩から「バイブルになっているのを、知っていますか」と言われた。一緒に仕事をした人が「此本流の段階分析をやると、客がすごく満足してくれる」と言って、残したようだ。『源流』からの流れは、知らないうちに広がっていた。

 1960年2月生まれ。母が埼玉県の実家へ帰って出産したが、暮らした出身地は父が家を構えていた東京都文京区で、3歳で練馬区へ引っ越す。父は大分県で税務署に勤めたのちに税理士となり、専業主婦の母と5学年下の妹の4人家族。

 小学校4年生のとき、東京駅で寝台特急に乗り、父の実家があった別府へ1人でいった。これで鉄道が好きになり、中学校時代も時刻表を眺めてはコースを決め、いろいろなところを巡り、大学院を修了するまで続けた。みんなでワイワイやるよりも、単独で行動するのが好き。人見知りで、会ってすぐ友だちになるほうではなかった。

 都立西高校から東大理科I類へ進んで機械工学科を専攻、大学院の工学系研究科も修了した。鉄道好きだから国鉄(現・JRグループ)に就職しようかと思ったが、入社試験は国鉄が11月なのに対し、一般企業は10月に解禁。9月下旬に友だちに誘われて何となく鎌倉の野村総研へいくと、いきなり面接となり、その日のうちに内定の連絡がきた。入るつもりはなかったが、面接をした研究所の3人がユニークで「こんな人たちと一緒に仕事ができたら面白いだろう」と、入社を決めた。

仕事の面白さと伴侶もみつけた「機械部屋」

 だが、大きな勘違いがあった。85年4月に入社し、鎌倉研究本部の産業経済研究部へ配属。社名に「研究所」とあるので、大学院でやったような研究が仕事と思っていたら、違った。あちこちの企業などに面談の予約を取り、初めての人と会って話を聞き、リポートにまとめる。最も向いていない、と思う。

 気が滅入り、夏には「もう辞めよう」と決めた。そんなとき、何も話していなかった指導役の先輩が「辞めようと思っているね」と言って、自宅へ呼んでくれた。現地・現物や仮説の大切さ、仕事の面白さなどを聞き、その後で一緒に仕事もやって、1年目を乗り切った。

次のページ