激しいキリスト教弾圧と、年貢の取り立てに怒った島原のキリシタン農民による一揆「島原の乱」の激戦地となった原城跡
この記事の写真をすべて見る

 お盆が近づいてきた。実家に帰省し、まずは仏壇に手を合わせて……は日本の夏の風景の一つだ。多くの家庭でお盆や葬儀を仏式で行ようになったのは、なぜなのだろうか。

【図版】寺請制度のしくみはこちら

 聖心女子大学文学部歴史社会学科兼任講師の祝田秀全氏が監修し、歴史コンテンツメーカーとして知られるかみゆ歴史編集部が編集した『ビフォーとアフターが一目でわかる 宗教が変えた世界史』がこの疑問に答えている。この記事では本書から、江戸時代に寺院と庶民の結びつきが強くなるきっかけとなった重大事件を紹介したい。

*  *  *

 江戸時代初期の1637年に起こった島原の乱。キリスト教を激しく弾圧した幕府に対し、キリシタンを中心に、年貢に苦しむ農民や働き口を失った浪人が加わる大内乱となり、鎮圧までに数カ月、死者3万人という大惨事に至ったことは幕府を大いに恐れさせた。

 そこで幕府は1671年、すべての民衆を寺院に所属させ、キリスト教徒ではないと証明するシステム「寺請制度(檀家制度)」を始めた。人々は特定の寺院に檀家として登録され、寺院に布施を行う。その代わり寺院は檀家に何かあれば「寺請証文」と呼ばれる身分証明書を発行し、檀家の身分を証明したのだ。寺院は、檀家とした近隣の人々のリスト(宗門人別改帳)を作成。宗門人別改帳は各地の戸籍帳になるだけでなく、隠れキリシタンを発見するためにも一役買った。

「戸籍を作成する」「隠れキリシタンをあぶり出す」――。そんな目的で始まった寺請制度だが、この制度により市民と寺院の関係が変化する。

 まず寺院は、布施が集まることで安定した経営ができるようになった。そのため寺院の数も増加、さらに古い寺院の再興も進み、建築物や仏像がつくられた。また、寺院は僧侶の学問機関を設置して学問を推奨。学を得た僧侶が師となって庶民の子どもたちに勉学を教える寺子屋の数も増え、国民の識字率が上がるなど利点も多くあった。

次のページ
お盆はもともと朝廷の儀式だった