幕末、京都の治安を守る特別警察として活躍した新選組。鉄の結束を誇る組織として名を馳せたが、その一方で規律を乱す不良隊士や不満分子は容赦なく粛清していった。その舞台裏を追う。
この記事の写真をすべて見る慶応三年(1867)三月に同志たちと御陵衛士を拝命し新選組から「分離」した伊東甲子太郎は、表面上は新選組の協力部隊として、実際には反幕派として活動していた。ところが、六月に新選組の幕臣取り立てが決定。隊内に残していた反幕派の同志が脱隊を申し入れたところ、拒絶されて切腹すると、近藤勇の暗殺を計画するようになる。
伊東は新選組との友好関係を築いているつもりだったが、御陵衛士には新選組のスパイとして斎藤一が潜入していた。そして計画が具体化する十一月十日、斎藤は不審を持たれないよう工作して、御陵衛士の屯所・月真院を脱して新選組に帰隊する。
御陵衛士のなかでは誰も斎藤がスパイだとは思わず、新選組との関係も疑わずにいたところ、十八日に近藤が伊東に面談を申し入れてきた。新選組が賄っていた活動資金の支給が、その用件とされたようだ。
1人の下僕を従えただけの伊東が、指定された近藤の妾宅へ赴くと幹部隊士が歓待し、用件を繰り延べて酒宴となった。勧められるままに痛飲した伊東は午後8時半頃に妾宅を辞し、木津屋橋通を東に進み、油小路通に差し掛かろうとしたときだった。
『慶応丁卯筆記』によると、軒下に潜んでいた5、6人の隊士が不意に斬り付けたのだという。また『新撰組始末記』には、南側にある板塀の隙間より、待ち構えていた数人の隊士のうちの1人の槍が、伊東の肩先を鋭く突いたとある。
この瞬間に下僕は逃げ去り、伊東も刀を抜いて応戦しようとしたが、最初の一撃が致命傷となったようで、油小路通を北上した本光寺の門前で絶命したという。
○監修・文 菊地明(きくち・あきら)/1951年東京都生まれ。幕末史研究家。日本大学芸術学部卒業。主な著書に『新選組 粛清の組織論』(文春新書)、『新選組全史(上・中・下)』(新人物往来社)、『新選組 謎とき88話』(PHP研究所)、『土方歳三日記(上・下巻)』(ちくま学芸文庫)ほか。
※週刊朝日ムック『歴史道Vol.28 新選組興亡史』から