私がどうかと思うのは「あくまで個人的な意見なんですが」と前置きして話す人である。いったい「個人的じゃない意見」なんてものがあるのだろうか。あと「たいした意見じゃないので無視してもらっていいんですが」と言う人。じゃあ言うな、である。このようなエクスキューズの背後にあるのは、自分の意見が結論に影響して責任を持たされるのは嫌だ、という逃げの姿勢だ。
 吉岡友治『反論が苦手な人の議論トレーニング』が批判するのは「もっと議論をすべきである」という意見である。「本当に、それが必要なのか、よく考える必要があります」もダメ。これらは議論を妨害し、話を停滞させるだけ。「どちらの気持ちもよく分かる」にいたっては〈自分は局外にいて対立に巻き込まれたくない、議論に参加したくない、という意思表明に過ぎない〉。
 いやはや、耳の痛いお言葉である。でも、いますよね、こういう人。
「私はこう思うけれど、人それぞれ、いろいろな考えがあると思うし、それでいい」。今般の学生によくあるこのような発想を著者は相対主義と呼んで断罪する。〈「人それぞれでいい」と言った途端に、複数の意見・主張を比較する意味はなくなる。だから、互いのコミュニケーションもできなくなるのだ〉
 もっとも今あげたのは導入部で、後半には議論とはいかにあるべきかを示す実例が続々と登場する。ブラックバス駆除の是非、自治体の「待機児童ゼロ」問題、東京裁判に対する賛否……。とはいえ、これで書名通り反論が苦手な人の議論レベルが上がるかとなるとやや疑問。ペーパーを前にした論理的思考と、反射神経が要求される実際の議論の場とは性質を異にするからだ。実例が大学や大学院の入試問題ばかりなのも「机上の空論」感を増幅させる。
 それでも〈「主張が出てきたら、その直後に『なぜなら……からだ』があるかどうか探せ!」〉などの助言は有効だろう。私だったら国会の論戦をネタにするけどね。
週刊朝日 2014年10月17日号

[AERA最新号はこちら]