1945(昭和20)年8月15日、大日本帝国はポツダム宣言を受諾して無条件降伏した。その時は「なぜ降伏など」と口惜しがる人も多かったが、やがて「どうせ降伏するのなら、もう3カ月早くすればよかったのに」と恨む声も出て来た。
確かに、もう3カ月早く、ナチス・ドイツが降伏した直後の5月初旬にでも降伏していれば、戦争被害ははるかに少なくて済んだだろう。
広島・長崎への原爆投下はなかったし、ソ連の参戦による「満州移住者」の抑留などもなかった。多くの都市は戦災を免れたし、沖縄での戦闘も決定的な悲劇にはならなかったはずである。
しかし、降伏当時の政治情勢から見て、それを望むのは「ないものねだり」というものだ。走り出した基本政策は、絶望的な上にも絶望的にならなければ変えられない。
戦後明らかにされた降伏決定過程を見ると、閣議も最高戦争指導会議も決定できず、天皇臨席の御前会議ですら議は割れた。降伏の賛否はなお伯仲していたという。
その結果、最終決定は絶対的権威を持つ天皇に委ねられたが、この構図は日本の「第一の敗戦」ともいうべき「幕末の動乱」とも似ている。徳川幕藩体制の幕引きを決定したのは「最後の将軍」徳川慶喜自身だった。この際も、徳川幕府の閣僚である老中たちは何の役にも立っていない。能吏の勘定奉行小栗忠順は徹底抗戦論だった。
国家の基本政策を変更するには、まず倫理の変更が不可欠だ。何が正義か、何が美しいかを問い直す必要がある。2010年代の今、日本はまた国家基本政策の大転換を求められている。そのためにはこの度も、倫理の変更が必要だ。その大業を、この度はどのような形で実現するのだろうか。
(週刊朝日2014年9月5日号「堺屋太一が見た戦後ニッポン70年」連載6に連動)