慶應幼稚舎の新書は前にも出ていて、慶應幼稚舎をホメそやしてあったが、どんな小学校だって探せばいいところも悪いところもあるだろう。私が通ってた武蔵野市立井之頭小学校にいい思い出はほとんどないが、救いようがないほどひどかったとも言えない。イヤな思い出にしろ、そのイヤな目が今の自分をつくったという意味で、それなりに意味があるだろう。しかし井之頭小学校の新書は出ない。
 なぜ慶應幼稚舎か、といえば「有名で、入るのが難しくて、金持ちが多そう」というイメージが日本中に広まっているからだ。じゃあ現実はどうかと、この本が出るのもわからないではない。「六年間担任持ち上がり制」や幼稚舎には下駄箱がないなどの「理想の教育」が具体的に書かれている。だが、そもそもが親には金銭的にも精神的にも余裕があり、そういうところの子供が集まってる小学校も余裕綽々の教育が行われている。そりゃよかったね、としかいいようがない。
 千住真理子らOBが幼稚舎を振り返っている。先生が児童と一緒になって落とし穴を掘って美女が落ちるとウハウハ、という思い出話を木村太郎が語ってるが、そんなことは慶應幼稚舎にしかないような話じゃないと思う。これが連続殺人でも犯した少年の担任の話ならネットで袋叩きだろう。そういえば灘中の国語の先生が教科書を使わず『銀の匙』で教えたそうですが、そりゃ灘中の生徒だから通用する方法だよなー。これが荒谷二中(金八先生に出てきた大荒れ中学)で成立するか?
 つまり、選ばれた者の余裕がハナにつくのである。幼稚舎出身の女子が「幼稚舎の子って要領がいいんです」と語っているのを読むと「やはり共産主義革命は起きるべきだ」と思ったりする。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」はいい言葉だけれど、そして今も慶應は福沢先生の教えを胸に突き進んでるらしいが、この学校の愛校精神みたいなものがダダモレになってるようで「ケッ」としか思えないのである。

週刊朝日 2013年12月6日号