天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子)
天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子)
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 2023年が始まったね! この連載は令和元年から始まって、今年で令和と同じ5年目だ。令和はまだ5年目だけど、これからどういう時代になるんだろう。今、令和がどんな時代かはなかなかわからないので、新年が明けたばかりのいま、俺が思う昭和と平成を振り返ってみようと思う。今回は昭和のことだ。

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 俺の昭和の印象といえば、真っ先に思い浮かぶのは力道山関だ。日本中がそうだったように、俺も小学生のときはプロレスが始まると力道山関の試合に釘付けになったもんだ。あのころはまだうちにテレビが無くて、隣の親戚の家に見に行ったよ。隔週金曜に中継をしていて、プロレスの放送が無い金曜はディズニーのアニメをやっていたけど、俺はそっちには興味が無かったなぁ。

 それから13歳になって相撲の世界に進むんだが、俺は力道山関がいた二所ノ関部屋に入門したから、先輩たちに力道山関の話をいろいろと聞いているよ。気に食わないタニマチがいたら若い衆を4~5人その人の家の前に並べて「〇〇のケチ野郎!」と叫ばせて逃げるとか、ウィットに富んだイタズラをしていたらしい(笑)。

 相撲部屋にいても横暴で暴れん坊だったようで、当時からハーレー・ダビッドソンのバイクに乗っていて、そのエンジン音が聞こえると後輩力士はみんな押し入れに隠れたとか、そんな話が伝説みたいに語り継がれていたよ。

 力道山関がプロレスラーになった後も、横綱の大鵬さんが試合を蔵前国技館に見に行ったら、帰りに力道山関からご祝儀をもらったって。相手が横綱でも先輩力士だったっていう意識もあったろうし、もともといい恰好しいだったらしいからね。だって、真冬にアロハシャツを着て歩いている人なんて、当時もいまも力道山関くらいなもんだろう。

 俺もよくアロハシャツを着ていたが、それは女房が「プロレスラーという稼業なんだから、目立つ格好をした方がいいよ」と言うからなんだけど、力道山関も同じ考えだったのかもね。まだ日本では誰もプロレスのことを知らなかった時代だし、自分も目立つ格好をしてことさら派手に宣伝したんじゃないかな。

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力道山のからだはスゴイ!