緑の大地計画は03年に始まり、現在までに1万6500ヘクタールの農地を回復させた。労働力の多くは現地の人々だ。海外の援助団体が豊富な資金を投じて作って終わりではなく、ともに作る。伝統的な工法にこだわったのは、アフガンの人々が将来にわたって自分たちで水路を築き、守り続けることを望んだからでもある。
活動のさなかには悲劇もあった。08年、日本人職員の一人だった伊藤和也さん(当時31歳)が拉致され、殺害された。遺体は中村医師に付き添われ、日本に帰った。弔辞で中村医師はこう語った。
「和也くんは、決して言葉ではなく、その平和な生き方によって、その一生をもって、困った人々の心に明るさをともしてきました。成し遂げた業績も数々ありますが、何よりも、彼のこの生き方こそが、私たちへの最大の贈りものであります。
平和とは戦争以上の力であります。戦争以上の忍耐と努力が要ります。和也くんは、それを愚直なまでに守りました。
彼は私に代わって、そして、全ての平和を愛する人々に代わって、死んだのであります。昨今、世界を覆う暴力主義──それが個人的なものであれ、正義という名の政治的、国家的なものであれ──和也くんを倒した暴力主義こそが私たちの敵であります。そして、その敵は、私たちの心中に潜んでいます。今、必要なのは憎しみの共有ではありません。憤りと悲しみを友好と平和への意志に変え、今後も力を尽くすことを誓い、天にある和也くんの霊が安からんことを心から祈ります」
この言葉は、中村医師自身の信念と生き方を示している。
アフガンでの銃撃事件を受けて、4日午後5時半、ペシャワール会は日本で会見を開いた。福元満治広報担当理事(71)は、「あと20年はやると言っていたのに」と話した。
私は11年前、当時事務局長だった福元氏が伊藤さんの事件を受けて開いた会見を思い出した。記者から「命の危険があるのになぜ活動を続けたのか」と問われ、福元氏は静かに答えた。
「あなたには命をかけても成し遂げたいことはありませんか?」
中村医師も同じような質問を受けると、「溺れかけた子を救いに親が海に飛び込んで死んだとして、誰が親を批判するだろうか」と答えていた。
中村医師は、困っている人たちがいる限り、そこにとどまる道を選んだ。伊藤さんの弔辞で誓ったとおりに。(ジャーナリスト・古田大輔)
※AERA 2019年12月16日号より抜粋
気温50度超えのスーダンでへき地医療支援 外務省を辞めた日本人医師の「覚悟」