J:TAKUROはたまに曲に演歌的な要素を入れてくるんですけど、北の大地ってどこの居酒屋に行っても演歌が流れているから、僕らも演歌的なメロディーになじみがある。
T:よくミュージシャン仲間にも「GLAYの冬の歌って真剣に“厳しい冬!”って感じ」って言われますね。
J:レミオロメンの「粉雪」みたいに洒落た感じにならない(笑)。「GLAY」の名前も、TERUとTAKUROが高1のときにつけたんでしょ?
T:二人で「響きがカッコいい」「RよりLがいい」って。
J:40代後半になっても10代のその感覚がまだ続いてる。
T:実際、一緒にやっていて楽しいですからね。つらいことも多少はありましたけど、次々と新しい経験をし進化をしてきた。それにみんなマジメだしね。
J:遅刻しないし。
T:それ、大きいよね。僕ら集合時間の5分前には全員揃うんですよ。血液型はJIROだけA型で、あと3人はO型。
J:役割分担はTAKUROがお母さんで、ほか3人が子どもみたいな感じですね。子どもが何か言い出すと、お母さんが「わかりました、考えてみましょう」って。僕がそれをサポートする長男で。
T:HISASHIは次男坊っぽいね。で、僕が三男坊でキャッキャと好きにやってる感じかな。
──25年の間に、バンド存続の危機は?
J:個人的に大変だったのは1999年の20万人ライブのあとです。さすがにあの出来事は大きすぎて自分で把握できないくらいの状況がのしかかってきた。
T:ファンの方も取材の量も増えて、ありがたいことではあるんだけど、追い回されるようになってしまった。
J:精神的なダメージがすごくて、ライブがあまり楽しいものに思えなくなってしまったんです。でもメンバーが察してくれて「つらそうだね? 大丈夫?」って。TAKUROは「ツアー中止にしたっていいよ。また復活したときにやればいいじゃん」と言ってくれた。近いところに味方がいるんだと、改めてわかってラクになったんです。それで救われました。
T:僕はあんまりそういうこと感じない。楽天的なのかなあ(笑)。喉の調子に対するストレスはハンパなくありますけどね。歌うことが嫌いになったら立ち止まってしまうと思うから、いかに歌うことを楽しめるかを常に考えている。
J:4年前にTERUがステージで突然「俺の夢はヴェネチアで10年後にライブをやることだ! みんなもついてきてくれ!」と言い出したんです。誰も何も聞いてないから「ええ? 何言ってんのこの人?」ってポカーン。その後の1時間、何を弾いたか全然覚えてない。
T:アハハ。
J:でもそれからTERUは毎年現地に行って、向こうのミュージシャンとセッションして、2年目にTAKUROが行って、今年は僕が行ったんです。すごく楽しかったんですよ。
T:10年しないうちに実現しそうだよね。
J:これがバンドのよさだと思うんです。僕は物事に慎重で準備が必要なタイプだけど、みんなのおかげで想像していなかった世界に連れていってもらえる。年を重ねると「あそこを目指すぞ!」という目標設定が難しくなるものだけど、今も夢を持ち続けることができるGLAYって、すごく幸せなんじゃないかな、と思います。(フリーランス記者・中村千晶)
※AERA 2019年10月28日号