平成を代表する殺人事件には、オウム真理教事件と同様に時代の歪みや臭いがそれぞれに染みついているという。ジャーナリスト・青木理氏が平成の重大事殺人件を振り返る。
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例えば、2008年に起きた秋葉原無差別殺傷事件。一連のオウム事件から10年以上を経てこの事件が起きたころ、日本社会の情景は相当に様変わりしていた。社会全体が酔ったバブルは無残に崩れ去り、株や不動産にのめり込んだ金融機関は次々破綻し、日本経済が突入したのは“失われた10年”とも称される長期の景気低迷。一方で政府は新自由主義的な経済政策に舵を切り、貧富の格差は拡大し、いわゆる非正規労働者は急増した。
並行して少子高齢化が進み、国の財政状況も悪化を続ける中、日本社会には将来への漠とした不安や焦燥が拡散した。右肩上がりの時代ははるか後景に遠ざかり、転換点がバブル経済とその崩壊だったとするなら、未来への希望薄き時代はいまも続いている。
そうした最中に秋葉原の歩行者天国へと車を突入させ、さらにはナイフを振り回し、計7人の命を奪った加藤智大は当時25歳。青森市に生まれ、地元の名門高校に学んだ加藤は、支配欲が強い母が望んだという国立大への進学を断念すると、非正規の職などを転々としながら暮らしていた。また、急激に利用者が膨張したネットの掲示板に没入し、そこに自己の“居場所”を求めてもいたらしい。加藤に死刑を言い渡した11年3月の東京地裁判決は、犯行動機をこう指摘している。
<被告は動機について、携帯サイトの掲示板の「成り済まし」や「荒らし」をやめてほしいと伝えたかった、と供述する。掲示板での嫌がらせにストレスを感じて怒りを募らせ、これが主な動機と考えられる。また、背景には家族や友人、仕事を失い、どこにも居場所がないという強い孤独感があった>
あるいは、16年に神奈川県相模原市で起きた障害者施設での大量殺傷事件はどうか。秋葉原の事件からまた10年近く経って起きた事件は、さらに陰鬱な社会の歪みがまとわりついている。将来への漠とした不安や焦燥ともおそらく無縁ではないのだろうが、日本社会には弱者やマイノリティーに公然とヘイトスピーチを投げつける者たちが登場し、ネット上にはさらに露骨な言説が飛び交うようになった。