姜尚中(カン・サンジュン)/1950年熊本市生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了後、東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授などを経て、現在東京大学名誉教授・熊本県立劇場館長兼理事長。専攻は政治学、政治思想史。テレビ・新聞・雑誌などで幅広く活躍
ベストセラーは、時代の皮膚呼吸のようなものとの相性があるようだ(※写真はイメージ)
政治学者の姜尚中さんの「AERA」巻頭エッセー「eyes」をお届けします。時事問題に、政治学的視点からアプローチします。
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ベストセラーには時折、おやっと思うような作者の作品がリバイバルし、ブレークすることがあります。今回の吉野源三郎氏の『漫画 君たちはどう生きるか』(漫画・羽賀翔一)はその典型で、発売から5カ月で135万部を突破しました。それに伴い原作の岩波文庫版なども版を重ね、累計で200万部に迫る勢いだそうです。この出版不況の中で約200万部というのは、想像を絶する出来事です。私が10年前に出版した『悩む力』は100万部を超えるヒットとなりましたが、当時は狐につままれたような気分でした。ベストセラーは、時代の皮膚呼吸のようなものとの相性があるようです。
驚くべきは、世界中で反知性主義のうねりが見られる時代に、教養の見本のような本書がベストセラーになっているということです。トランプ現象をはじめ、白黒をつけたがるぶっきらぼうな言葉が氾濫する昨今、本書の啓蒙的なヒューマニズムは鼻でせせら嗤われる冷笑の的のはずです。それでもヒットした背景には、戦後の日本が目指した「経済成長への強迫観念に突き動かされた先の豊かさ」に対する懐疑の念があるのかもしれません。もしかすると、これまでとは違った生き方や理想があるのではという思いが、悩みながらも自分の頭で考え抜こうとする主人公のコぺル君の思いとダブっているのだと思います。
私も大学で教養を教えていますが、何が一番大事かというと、ものの見方や感じ方の尺度となる価値の問題です。人間の価値をどこに置くかで世界の見方が変わってきますし、その価値観をずらした時に、自分でも思ってもみなかったことが見えてきたりするものです。
今の時代は文系の知識無用論が跋扈しています。ここで無用とされているのは、言語やシンボル、記号などで表される見えない価値を扱う学問(知)です。そうした解答が決まっていないものを考え続けるところにこそ価値があると、本書は説いているのです。今の時代は、短期間で実績を出せない人間には価値がないとされているような生きにくい世の中です。だからこそ本書のような古典に、新たな光が当てられているのではないでしょうか。
※AERA 2018年2月12日号