批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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先日韓国に招かれ、拙著『ゲンロン0 観光客の哲学』について講演を行った。同著は、「友」と「敵」の対立に踊らされる現代政治の克服を訴えた書物である。政治の本質は友敵(ゆうてき)の設定にあると戦間期に喝破したのは、ドイツの法学者シュミットだった。その主張は、90年近く後のいまもますます説得力を増している。
民主主義は人類が到達した至高の原理である。しかし現実を見ると、民主主義の名のもと社会の分断が進んでいる。「あれかこれか」を迫る現在の投票制度は、原理的に有権者を友と敵に分けるからである。ブレグジット、トランプ、最近ならカタルーニャの住民投票など、その例は枚挙にいとまがない。日本でも今後、改憲発議を控え護憲派と改憲派に国民が二分されることになるだろう。しかしそれは望むべき政治だろうか?
ぼくは講演でこのような問題を提起し、最後に福島の原発事故に触れた。同事故をめぐる議論もまさに「友敵」の対立に陥っている。福島は安全だという勢力と危険だという勢力がいがみ合っている。しかしそんな単純な二分法は、原発事故の多様な側面を見えなくするものでしかない。そこでぼくはチェルノブイリへのスタディーツアーを実施している。最後にツアーの成果を紹介して話を終えた。
ところがこの講演が激しい批判を引き起こした。いわく福島は危険である、事故現場にひとを連れて行く活動は反公共的である、このような講演者を招待したのはまちがいだ……。
ぼくは反論を試みながら、あらためて道のりの遠さを実感せざるをえなかった。現代は友敵の対立に満ちている。友敵を作るのは権力者だけではない。反権力の側も、権力を「敵」と名指すことで活動している。そこで「フクシマ」はひとつのシンボルになっている。国内でこそ被災地の複雑な現実は多少知られるようになっているが、国外では単純な二分法がいまだ力をもっている。福島について同じ意見でないと、自動的に敵認定されるのだ。
友敵の対立は単純である。だから安心である。でもその安心を崩すことでしか真実は見えてこない。友敵の対立に依存しない政治が求められている。
※AERA 2017年11月27日号