ハービー・ハンコックの初来日は'64年にマイルス・デイビス・クインテットの一員として、2度目は'74年に自己のクインテットで、3度目が'75年のヘッド・ハンターズとして来日…… ハービーの経歴や音楽性をこうして書き始めると、それだけでスペースがなくなってしまうから、これ以上は書かないことにした。
ぼくが初めてハービーに会ったのは? ……う~ん、もうず~いぶん昔のことです。ジャズを撮り始めて2年目ぐらい、まだまだ未熟な頃……。
日本の野外ジャズ・フェスのハシリだった「ライブ・アンダー・ザ・スカイ」、その記念すべき第1回目の超目玉"V.S.O.P.クインテット"として来日した1977年の夏、ハービー4度目の来日の時でした。
当時の記録を探してみると、昼の部・夜の部に分けて行われたコンサートの観客動員数はそれぞれ、8千人と1万2千人とある…… すごい数です。
会場になった田園コロシアム(デンコロ)はテニスが主目的なスタジアムで、名前の通り、田園調布の閑静な&高級住宅街の中にあった。閑静な&高級住宅街の中にあったがゆえに、騒音問題で後にライブ・コンサートはデンコロから追い出されてしまったのだけれど、それはチューリップやオフコースやチャゲアスのせいではなく、毎年のようにやって来ては超満員の観客を絶叫させたハービー・ハンコックのせいだと思う。(冗談です)
すっかり脱線しましたが、日本ヒイキのハービーが毎年、それも年に何度もやって来てくれたのは冗談ではなく、おかげですっかり顔なじみになったぼくは、ある時はアキバの電気街へ行きたいなぁ~、あるときは西口ヨドバシへ連れてってくれないかなぁ~、なんて頼まれて、付き合わされるハメになってしまった。(インターネットで何でも便利に買える時代じゃなかったからさ……)
それにしても、あのハービー・ハンコックをマネージャーにも事務所にも招聘元にもハナシ通さずに、自分の車で連れ回すなんてムチャ出来たのも、そんな時代だったからですかねぇ。
事故らないように運転に細心の注意を払うにしても、ゼッタイの保証はない訳で、万が一のことになったらぼくはとんでもないカタチでジャズの歴史に名を残すことになったかも知れず……交通事故にならずとも、あのハービー・ハンコックが車のドアに指はさんでケガでもしたら、ぼくが代わりにピアノ弾くわけにもいかないし……(バイエルも終わらんうちにピアノ教室やめてるし……)ほんと、ムチャしたもんです。
そんな感じで、すっかり顔なじみになっていたおかげ(かどうか)で、ハービーはステージ上からでもカメラ目線の笑顔を向けてくれ、バックステージではひょうきんにふざけ、いつもぼくのカメラにかっこ良く写ってくれる事になったのでした。めでたしめでたし。
ハービー・ハンコック:Herbie Hancock(allmusic.comへリンクします)
→ピアノ/1940年4月12日~