タケナカマコトというピアニストがいる。その名を漢字でどう書くのかは、わからない。輸入盤のCDでしか接したことがないから、Makoto Tanakaという表記を知るのみである。

 おもに、ボストンで活躍しているらしい。私のてもとには、二枚のCDがある。そして、そのどちらも、ボストンの「バンビ・レコード」からだされている。ひとつは、ピアノソロの「ミオ」、そして、いまひとつは、ベースとのデュオを聴かせる「ヒビキ」である。

 収録曲は、その大半が日本の民謡になっている。「五木の子守歌」や「花嫁人形」などを、ジャズピアノでとどけるCDである。和のテイストをおおはばにとりいれた作品だと言っていい。

 ライナーノートを読むと、バークリー音楽院で。教鞭をとってもいるという。それなりに、アメリカでポジションを獲得した人でも、あるようだ。

 和風のひびきにみちあふれている事情も、おしはかれなくはない。あちらのミュージック・シーンで自分の個性をきわだたせる。そう考えたときに、おのずとルーツの日本がうかびあがってきたのだろう。

 そういえば、秋吉敏子のアルバムにも、和の色あいは、色こくただよっているものがある。多民族国家のアメリカで、自分のよってたつところを、アピールする。そのためには、こういう演出がかかせなくなるということか。

 今回、この問題を考えるようになったのは、ある論文を読んだせいである。『ニュー・ジャズ・スタディーズ』(アルテスパブリッシング)という本が出たことを、ごぞんじだろうか。マイク・モラスキーらが編集をてがけた、ジャズ研究の先端的な成果をあつめた一冊である。

 そのなかに、「お国のためのジャズ-戦時日本の新文化体制へ向かって」という論文がある。著者は、E・テイラー・アトキンズ、北イリノイ大学で歴史学をおしえる、若い教授である。

 これが、1930年代、40年代の日本における音楽シーンをおいかけており、たいへんおもしろい。

 周知のように、戦時下の日本では、英米の音楽がしりぞけられた。なかでも、ジャズは、下品で喧噪にみちた敵性音楽として、弾圧をうけている。

 しかし、圧力をかけてきた当局側に、音楽をあじわう耳は、そなわっていなかった。何がジャズであり、何がジャズでないかの見きわめは、なかなかつかなかったという。

 そんな状況下に、ジャズをかくしあじとする日本音楽をさぐる音楽家が、いたらしい。ジャズになれない人が聴けば、新しい日本音楽としてひびく。しかし、こころえのある人が耳にすれば、下地のジャズがあじわえる。そういう音楽をもとめる人たちが、ではじめたのだという。

 テイラー・アトキンズは。そんな時代がもっていた可能性を、高く評価する。戦時下のミリタリズムが、音楽家の自由な表現を抑圧したという常套には、くみしない。自由はゆるされなかったかもしれないが、新しい表現のできる可能性も、あの時代は秘めていたという。ジャズと日本音楽のとけあった、新しい音楽が。

 敗戦後の日本は、戦時下の重圧からときはなたれた。ジャズを禁じた文化統制も、ついえさる。音楽家たちは、なにを演奏してもよくなった。もちろん、ジャズも。

 じじつ、敗戦後の日本には、圧倒的なジャズのブームがおとずれる。音楽家たちは、きそいあうかのように、アメリカのモダン・ジャズをおいかけた。来日するバンドや、新着レコードから聴こえてくる音を、まねながら。

 だが、そこに新しい表現はあったかと、アトキンズは、問いかける。けっきょくのところ、みんな、アメリカンジャズのコピーではないか。ジャズという世界の文化には、なんの貢献も与えていない。日本人は、せっかくの自由を、猿まねにしかいかせなかったんじゃないか、と。

 くらべれば、抑圧的な戦時下のほうが、新しい可能性をもっていた。アメリカのコピーではない、日本的なジャズがめばえたかもしれない時代だったかもしればい。これが、アトキンズの結論である。

 日本人の研究者から、こういう話はなかなかみちびきだしえないだろう。アメリカの研究者だからこそ、こういうストーリーも、ひねりだせるのだと考える。

 オレたちの猿まねはするな。日本人なら、日本人らしい音をつむぎだせ。そんな要請を、暗々裏に感じてのことだろう。秋吉敏子やタケナカマコトは、日本的にひびくジャズを、アメリカで発表した。

 アメリカで、ミュージシャンとして、日本人が生きていく。そのいとなみは、なにほどか戦時下のそれに近いということなのかもしれない。

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