新宿の「昭和」を探す (撮影/倉田貴志)
新宿の「昭和」を探す (撮影/倉田貴志)
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 平成が終わろうとしている今、昭和の名残はどんどん姿を消している。昭和33年まで赤線地帯があった新宿の界隈を、その歴史に詳しい三橋順子さんとめぐり、面影と変遷を教えてもらった。

【写真特集】この歴史なくして、現在はありえない 新宿の「昭和」を探す

 世界有数の巨大都市・新宿は、現在の新宿御苑付近にあった江戸の宿場「内藤新宿」を中心に発展したという。

 人が集まるところ、盛り場も発展する。宿場とともに、遊女を置く遊廓(妓楼)も、界隈に広がる。

 新宿の遊廓エリアの歴史を記した『新宿 「性なる街」の歴史地理』の著者で性社会・文化史研究者の三橋順子さんと、2019年の新宿を歩く。

「今の伊勢丹の開店が昭和8(1933)年。明治通りを隔てて反対側に映画館街、その裏手が寄席『新宿末広亭』やカフェー街だった。その先に仕切られた壁の向こうが新宿の遊廓でした。普通の繁華街と地続きだったんです」

 現在の新宿三丁目「要通り」は、遊廓のメイン通り。「鈴喜楼」「不二川楼」「港楼」……両サイドに立ち並ぶ妓楼には、艶やかな遊女たちの姿が見られただろう。

「当時だったら呼び込まれるのを振り切るのが大変だったかもしれませんね」

 冗談めかして三橋さんが言った。現在も数々の飲食店でにぎわうエリアだが、遊廓としてのよすがを感じることはなかなか難しい。三橋さんによると、新宿五丁目東の交差点にある交番は、遊廓の入り口のしるしで、ぽつりと残る風俗店は、当時の営業許可の名残。新宿遊廓は、確かにここに存在した。

 大正12(1923)年に発生した関東大震災で、江戸の代表的な遊廓だった新吉原や洲崎は、壊滅的な被害を受けた。

「2大遊廓のお客さんが、被害の少なかった新宿に集中し、一気に発展したそうです」

 もともと江戸のはずれだった新宿の繁華街化が加速する。東京大空襲で焼け野原になった後、昭和21(46)年からこのエリアは今度は警察黙認の売春街「赤線」となり、再びにぎわっていく。赤線に対し黙認しない売春地帯が「青線」と呼ばれた地域。現在は老舗飲み屋街として知られる「新宿ゴールデン街」もそうだ。

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