●仮想《ジャズ・ストリート・ブルース》の録音現場から
あなたは希望に燃える新人ピアニスト。デビュー・アルバムを録音するために、はるばるニューヨーク近郊ニュージャージーのレコーディング・スタジオに来ました。数多くの名盤が吹き込まれたことから、このスタジオはジャズ好きの間で“聖地”と呼ばれています。
「ここで録音できるなんてボカァ幸せだなあ」「ジャズをやっているときが一番ごきげんなんだ」と加山雄三状態になっていると、他のミュージシャンからの鋭い視線が飛んできました。彼らはあなたがスタジオに到着する前から、準備万端でスタンバイしていたのです。あなたはピアノの前に座り、深呼吸を繰り返します。録音エンジニアは無言です。最初に録音するのは、あなたの書きおろし《ジャズ・ストリート・ブルース》。
ドラムスが快調にビートを刻みます。ベースの低音がズンズンと響きます。あなたのピアノも、自分で驚いてしまうほどいいプレイです。ちょっとテンポが速すぎる感じがしましたが、一気にエンディングまで持ち込みました。
●複数のテイクは、こうして生まれる
しばらく余韻に浸っていると、奥のほうで聴いていたレコード・プロデューサーから声がかかります。「ちょっとテンポが速いんじゃないかな。もっとリラックスして、もう一度やってみよう」。録音エンジニアは無言です。あなたは再び《ジャズ・ストリート・ブルース》を、今度はテンポを落として演奏します。なかなかいい感じです。「エンディングをカッコよく決めるぞ」とラストスパートをかけたのですが、気負いが空回りしたのか、最後の最後で思いっきり音を外してしまいました。
プロデューサーが声をかけます。「エンディングが残念だったなあー。このテンポを保って、もう1回トライしてみよう」。録音エンジニアは無言です。あなたは、三たび《ジャズ・ストリート・ブルース》に取り組みます。スタジオの雰囲気にも慣れてきました。ベースやドラムスとの呼吸もぴったり。演奏がやむと、スタジオ中に大きな拍手が響きました。あなたも、どのミュージシャンも、プロデューサーも満ち足りた気分を味わっています。録音エンジニアは無言です。あなたのデビュー・アルバムには、3度目に演奏した《ジャズ・ストリート・ブルース》が収録されました。
この場合、3度目の演奏(アルバムに入ったもの)が本テイク、他の2つの演奏が別テイクになります。別テイク.....英語で"Alternate Take"と言いますが、要するにこれはアルバムに採用されなかった(陽の目を見なかった)同一曲の別演奏のことです。口の悪い人のなかには「別テイクはボツテイクである」という意見もあるようですが、それも、あながち間違ってはいません。オリジナル作品の発売の時に、それなりの判断を経て淘汰された演奏なのですから。それが倉庫から引っ張り出されて、CDの巻末にボーナス・トラックとしてくっついているからといって、ありがたがる必要など(あなたがコレクターでなければ)ないのです。
とはいえ、私は別テイクを完全に否定することはできません。それは、次に紹介する2枚のアルバムのせい(“おかげ”ではない)です。
●マイルス・デイヴィス『バグス・グルーヴ』の神秘
まだ物心もつかなかった頃の私にジャズの面白さを沁みこませてくれた1枚に、マイルス・デイヴィスの『バグス・グルーヴ』があります。A面に入っているのは、表題曲《バグス・グルーヴ》のテイク1とテイク2のみ。本テイク(マスター・テイク)として選ばれたのは“テイク1”ですから、“テイク2”が別テイクということになります。
つまり同じ曲が連続して出てくるのですから、普通なら飽きてしまうところです。なのですが、それが私にはとても心地よかったのです。たしかに冒頭の合奏部分(テーマと呼びます)は両テイクとも同じです。しかし、それに続くアドリブ・パートときたら、もう、全然違うのです。たいていのジャズ演奏は、前のテイクの問題点を修正して、より完成度を高めるべく次のテイクに取り組みます。しかし、マイルスたちはそんなことはちっとも考えていないにちがいありません。やりたいことがあってしようがない、さまざまなアプローチを表現したくてたまらない。だからこそ、素晴らしいテイク1がすでにできあがっているにもかかわらず、あえてテイク2に挑んだのだと、私がマイルスになりかわってお答えします。
セロニアス・モンクのピアノが奏でる、無垢な響きを何と形容したらよいでしょう。早朝にムクッと起きて、小鳥の声にそのままピアノで相槌を打っているような、みずみずしい音には惚れ惚れしてしまいます。マイルスもモンクも、ミルト・ジャクソン(ヴィブラフォン)もパーシー・ヒース(ベース)も、ケニー・クラーク(ドラムス)も、みんな揃って素晴らしい。このメンバーならテイク200やテイク5000になってもそれぞれ異なる、心ゆさぶる内容になったにちがいありません。ただ《バグス・グルーヴ》のテイク2はやはり奇跡といってよいもので、別テイクのなかでは例外中の例外。別テイク界の治外法権と呼びたいほどです。
●バド・パウエルが誘う別テイクの快楽地獄
そしてもう1枚、私を別テイクの快感に陥れた作品として忘れられないのが、ピアノの巨人バド・パウエルの『ジ・アメイジング・バド・パウエルvol.1』です。初めて聴いたのはまだ小学生の頃でしたが、いやー、びっくりしましたね。いきなり同じ曲が3つ続けて出てくるのです。こんなこと、ロックや歌謡曲ではまず、ないでしょう。しかも曲名が《ウン・ポコ・ロコ》というのですから、いたいけな私は異星空間に迷い込んだような気がしましたよ。
ですが、これもまた、異様な迫力でこちらの胸ぐらを掴みにかかるのです。テーマ・メロディーこそ同じですが、バド・パウエルのピアノは、悪魔的な何かに取り憑かれたようによがり、飛び跳ね、這い回り、飛翔します。タミフルなど存在もしなかった時代に、ここまでカッ飛んでしまった奴がいたのです。その男こそバド・パウエル!
《ウン・ポコ・ロコ》(テイク1)、《ウン・ポコ・ロコ》(テイク2)、《ウン・ポコ・ロコ》(本テイク)3連発、約12分に私はどれほどのカロリーを消費させられたことでしょう。しかし、これが回を重ねるうちに快感になってくるのです。マックス・ローチのドラムスも各テイクでアプローチを替え、パウエルのピアノをガンガン煽ります。ああエクスタシー!!
ただ、これも残念ながら別テイク界の例外です。こんな聴きごたえのある別テイクが世の中にゴロゴロしていれば、世界のジャズ・ファン総数は今よりも3~4桁は増えていてもおかしくないのですが.....。
《バグス・グルーヴ》と《ウン・ポコ・ロコ》の別テイクは、私に、ジャズがいかに恐ろしく、奥深いものであるかを教えてくれました。もっとも、「ジャズの雰囲気だけサクッと聴きたいわ、ウフッ」という方にまで、この世界をオススメしようとは思いませんが、ジャズの、アートの業(ごう)のようなものを教えてくれたという点で、私はマイルスとパウエルの2種の別テイク群に頭があがらないのです。