1938(昭和13)年に開かれた御前会議。中央が昭和天皇 (c)朝日新聞社 @@写禁
1938(昭和13)年に開かれた御前会議。中央が昭和天皇 (c)朝日新聞社 @@写禁
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 昭和天皇は昭和16年9月6日の御前会議で、明治天皇の御製を読み上げた。それは平和を願うメッセージのはずだった。しかし、『昭和天皇「よもの海」の謎』の著者である平山周吉さん(62)は、昭和天皇が自分の思いに反して、逆のメッセージを発していたのではないかと分析する。

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「よもの海」は素直に読めば、明治天皇の「平和愛好の御精神」が発露した「平和を望んだ歌」と読めます。世界中平和で仲よくやっていきたいという、ありがたい精神が表現された和歌として。

 昭和天皇ご自身も、こうした常識的な解釈によって「よもの海」を毎日鑑賞していたからこそ、御前会議で“錦の御旗”として持ち出したのです。

 しかし、この和歌の成立時期を調べていくと、和歌の解釈は大きく違ってしまいます。「よもの海」は明治37(04)年2月10日に詠まれました。その日は御前会議で日露戦争開戦が決まった日で、御前会議の直後に詠まれていたのです。自分の本意ではないが、国策として大国ロシアと戦うことが決まってしまった。「平和を愛好する」明治天皇が、「やむをえず戦争を容認する」という苦衷の歌だったのです。

 明治天皇は日露宣戦の詔書で「豈(あに)朕が志ならむや」の一文を書き加えました。「よもの海」の三十一文字に託された「平和愛好」と「開戦容認」を集約した言葉が「豈朕が志ならむや」だったのです。

 昭和天皇は、偉大なる祖父のその無念に重ね、自身も日米宣戦の詔書に「豈朕が志ならむや」と加筆することになります。

「よもの海」を素直に読んだ場合と、詠歌時期を念頭に置いて読んだ場合で解釈が違ってくる。その“からくり”に私が気づいたのは朝日新聞の縮刷版を読んでいる時でした。昭和17(42)年3月10日の記事です。見出しには「明治天皇御製に/偲び奉る日露役」「朝に夕に御軫念(ごしんねん)/畏(かしこ)し開戦の御英断」とあり、「よもの海」が、日露開戦決定の直後に詠まれた、明治天皇が開戦を容認した和歌だったことが強調されていました。3月10日は陸軍記念日でして、記事は陸軍から情報を入手して作られたと思われます。

 日米戦争開始から3カ月後、日本はまだ快進撃を続けていました。この戦争は山本五十六以下の海軍が主役の戦争と一般的には思われていた時期でした。陸軍は、勝利の分け前を要求する権利は我々にこそあり、とアピールしたかったのでしょう。

 この記事の底流に流れているものを我流に翻訳するとこうなります。「よもの海」が日露開戦決定の後に詠まれたという正当な解釈を陛下にお伝えし、戦争に反対されていた陛下にご納得いただき、日米開戦やむなしと決断していただくに力を尽くしたのは、わが陸軍である、と。

 天皇がついに「戦争容認」となった経緯は、私の本に書きましたので省略します。

 実録を読んで、はからずも、編纂者も私と同じ意見であることを感じました。一大決意で臨んだ御前会議で、「平和」への意思を伝えようとした。立憲君主ゆえに抑制して、自分の意見を直接述べず、明治天皇の権威を借りた。「よもの海」の「平和愛好の御精神」を強調したつもりが、それはよりによって「開戦やむなし」の和歌だった──。であるからこそ、「平和愛好の御精神」は実録から消去しなければならないのだ、と。

週刊朝日  2014年11月14日号より抜粋