緒方さんの経歴や活躍については、様々な著作や報道を通じて、多くの読者にとって周知のことも多いと思うが、その際のインタビューでの発言も紹介しつつ、「リアルな平和主義者」としての緒方さんの実像に触れてみたい。
■五・一五事件と平和主義
緒方貞子さん(旧姓・中村)は1927(昭和2)年9月、麻布区霞町(現在の東京都港区)で生まれた。昭和金融恐慌が起き、暮れには浅草・上野間に日本で初めての地下鉄が開通した年である。
名前を付けたのは、後の首相で曽祖父の犬養毅。初ひ孫の名前を記した「名記貞子」の書は今も緒方さんの自宅に飾ってある。
父中村豊一は外交官、母方の祖父は犬養内閣で外相を務めた芳澤謙吉。犬養も外相経験を持つ。外交官一家に生まれ、幼少時から父の勤務にあわせて米国、中国を転々とした。
その曽祖父は1932年5月、首相官邸を襲った海軍の青年将校らに暗殺される。「五・一五事件」である。当時、まだ4歳だった緒方さんは、曽祖父の突然の死をサンフランシスコで知る。
「そのときのことを聞いて、軍部はよほど悪い人たちに違いないと思いました。だから、子どもの頃から『軍部は悪い』という感じを強く持っていました」
緒方さんの掲げる「平和主義」の原点に、軍部が台頭し、曽祖父を軍部に殺された自らの幼少期の体験が少なからず影響していることは、本人が語る通りである。1939年に香港から日本に戻った父が電信課長になった際には、外務省の敷地内に住んでいた。満州とモンゴルの境界付近で日本とソビエトの軍事衝突ノモンハン事件が起きたのはその年の5月。「自宅の廊下にあった5、6個の電話が一斉に鳴ったことを覚えています」
その後、研究者として日本政治外交史の勉強をした際、五・一五事件当時の陸軍大臣だった荒木貞夫に聞き取りにいったことがある。荒木は皇道派の重鎮で青年将校のカリスマ的存在だった。
「衰えて、寝ておられたところに行きましたが、異様な感じがしました。(中略)私は犬養のひ孫ですってことは言ったかもしれません」