しかし、彼女はその後も第一線で活躍を続けた。むしろ、久世のほうがTBSを退社するなどしたことで、いわば女を上げたのである。
そして、もうひとつはまだ記憶に新しいこの発言だ。
「冗談じゃなく全身がんなので、来年の仕事、約束できないんですよ」
13年3月、日本アカデミー賞授賞式での告白である。これには多くの人が度肝を抜かれ、同時に彼女の死が近いことを予想した。ところが、それから5年半にわたり、彼女は映画『万引き家族』をはじめとする数々の作品で健康な人顔負けの充実を示していく。しかも、密着ドキュメント『“樹木希林”を生きる』では、最期の1年数ヶ月の生活を映像に記録させるということまでやってのけた。
興味深いのは、若き日のエッセイでこうした晩年を「予告」していたことだ。
「ひょっとして芸能人のこの世での役は、死に目に出会わなくなった世の人びとに、己の死にざまをお見せすることかもしれません。その生きてきた人生をぶっちゃけながらです」(『樹木希林のあだダ花の咲かせかた』)
当時、39歳。おそるべき有言実行ぶりである。
また、彼女は女優として「異形」だった。子供の頃、転落事故で頭を打ったせいで、おねしょに悩まされたり、やぶにらみになったりして、自閉症気味だったうえ、芸能界に入ったことで「自分が不器量だということに早めに気づかされちゃった」と苦笑する。しかし、
「私が今日まで生きてきて、自分で一番トクしたなと思うのはね、言葉で言うと、不器量と言うか、不細工だったことなんですよ」
と、言い切るのである。これを彼女は、関心を寄せられないぶん自由に判断でき男を見る目が養われた、という意味で言ったが、本業にも大いに活かした。その代表例が、ライフワークのひとつというべきフジカラーのCMシリーズだ。「美しい方はより美しく、そうでない方はそれなりに」というキャッチコピーは、彼女のユニークな個性なしでは成立しえないものだった。