――正解ではないとわかっていても矛盾した行動を起こすとは、具体的にどういうことでしょうか。
たとえば、「ルッキズム」についても同じことが言えます。人を容姿で判断することに批判が集まっているにもかかわらず、スポーツ選手の容姿についての記事も絶えず目にしますよね。
差異があるのは当然であり、人それぞれ軸となる価値観は違うわけですが、そこで順位をつけたくなってしまうのが人間という動物なんです。それは人間の性(さが)だからしょうがない。でも問題はそこからで、ぼくは順位の上の人はどんどんほめてあげていいと思うんですよ。いろんな種目のスポーツにせよ、数学や英語といった勉強の科目にせよ、それが得意な人はどんどんほめてあげていい。でも問題なのは、順位が下の人にあなたはダメだとか、劣っているとかそういう意識を植えつけることです。
とくに日本はその傾向が強いかもしれないですね。伝統的に、ダメなところを指摘するのが「愛」だと思っている節があります。たとえば、欧米に行くと子どもが幼いころから多角的にほめている。ところが、日本では「音読が上手だね。でも書き取りや計算問題はもっと頑張らないとね」と、ほめるだけで終わらない(笑)。子どもの立場に立つと、「ダメなところを指摘されて終わった」という印象が残る。意識を変えるのは簡単ではないですが、親も教育者も「ほめて終わる」ということをしていかなければ、という思いはあります。
差異はあっても、「優劣」をつけるのではなく、何が得意なのかを考えるほうがよっぽど大切だと思います。極端な例にはなりますが、数学の天才が作家になっているわけではなく、「自分は数学が苦手だから、文学しか進むべき道がない」と選んだ結果、作家になった人もいるわけですから。ダメなことがはっきりすることが自分の人生をひらくことだってあるわけですよね。
それに人間のすべてに順位がつくわけではないでしょう。人間の優しさとかに順位はつけられない。正義感とか自分の抱いている夢とかだって、それは順位づけができないですよね。「計測」できて点数になるようなものには順位がつけられる。だけど順位がつけられない「大切なもの」も人間にはあるんです。「順位づけをするのをやめましょう」ということより、順位付けできないところに人間の大切なものもあるんだよということを、実感してもらうのが、教育の使命なのではないでしょうか。
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