フランスの学校では「アドリブ=議論」ができる人を育てることを大切にしているといいます。では、「議論ができる子ども」ってどんな子でしょうか? 日本に住むフランス人記者であり、2人の息子を育てる西村カリンさんが、日本とフランスの学校や教育について語ります。著書『フランス人記者、日本の学校に驚く』(大和書房)からお届けします。

MENU なぜフランスでは「違うと思います」が言えるのか フランスで重視されるのは「疑う」こと 先生に間違いを指摘されたら、感謝される? フランスでは「大人だから正しい」という考え方はない 「5分遅れてもいいよ」でもっと表現が学べるかも

なぜフランスでは「違うと思います」が言えるのか

 家でも学校でも社会でも子どもたちはルールを学ぶ。厳しすぎるのは不憫だが、ある程度決まったルールがあって、この家族、このクラス、この社会が維持されることを知っておくことは大事だ。

 問題は、そのルールが間違っていた場合である。その校則はなぜそのようになっているのかとロジックで考えず、決められたルールに従ってしまう。日本ではルールから外れた「例外」に対応するのが不得手のようだ。例外に対応しないのは、自分で責任をとりたくないという気持ちが潜んでいることもあるように見える。

 責任をとることは、リスクをとるとも言い換えられるだろう。自分の意見を言うと、もしかしたら反対されるかもしれない。あるいは間違ったことを言う可能性もある。そこには必ずリスクがある。でも、それを承知で責任をもって言うのだ。なにも自分の意見に固執するという意味ではない。議論が進むと、相手の意見によって自分の意見が変わってくる可能性もある。 

 しかしながら日本では、自分の意見はリスクがあるために言わない。大人でも子どもでもそうだ。何事も摩擦が発生するリスクを避ける。自分で決めたことをせず、言われたことをするだけなら、リスクは発生しない。もし問題が起きたら、言った人の責任、ルールを決めた人の責任になるから。「自分で決めたのではないから責任はない、そのとおりやっただけだ」と逃げることができる。

 たとえば、駅のホームには足形のマークがある。皆、そこに合わせて並んで電車を待つ。もしかしたら、そこで待つことに問題があるかもしれない。天候や状況によって不都合が発生するかもしれない。でも足形のマークのところで待つというルールだから、そこで待つ。こうしたリスクをとらない態度こそリスクになるとわたしは思う。「リスクをとらない=責任逃れ」によって、冤罪事件をはじめとしたさまざまな問題を生み出している。

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西村カリン
西村カリン

1970年フランス生まれ。ラジオ局やテレビ局を経て、1997年に来日。AFP通信東京特派員となり、現在は「ラジオ・フランス」および日刊リベラシオン紙の特派員。著書に『不便でも気にしないフランス人、便利なのに不安な日本人』(大和書房)など。

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