東京に「宝島村」があった。トカラ列島の宝島から集まってきた人たちの集まりだ。同列島が米軍占領下から日本に復帰して70年。村の軌跡と島のいまを追う。AERA 2022年8月15-22日合併号の記事から紹介する。
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「お友だちがね、奄美大島に移住するんだって」
東京都文京区小石川に住む杉田ハルコさん(84)は夕食時、孫の真奈さん(27)にそう聞いた。故郷の宝島(鹿児島県十島村)から、当時はまだ「外国」だった南隣の奄美大島(同県)に密航船で渡った70年前のことを思い出した。
敗戦直後の鹿児島県が北緯30度線で分断され、これ以南のトカラ列島、奄美群島などが米軍占領下に置かれたのは1946年1月。その6年後の52年2月、宝島を含めたトカラ列島が日本へ返還された。9人きょうだいで下から2番目のハルコさんは53年に中学校を卒業。その夏、定時制高校に通うため長兄の大久保清さん(故人)を頼って奄美大島に渡った。「国境警備船」がいたため、深夜に改造漁船で3~4時間かけて「脱出」した。奄美大島が日本に復帰したのは同年12月のことだった。
■「一族のせいで過疎化」
清さんは同島を拠点に会社を経営する一方、東京で弟たちやハルコさんと後に結婚することになる杉田稔さん(87)らと、小さな製本会社を立ち上げる相談をしていた。55年に清光社を設立し、翌年にハルコさんと上京。高度経済成長の波に乗って業績を拡大し、宝島出身者をどんどん雇い入れた。昭和30、40年代だけで100人を超えた。
「うちの一族のせいで宝島が過疎化したと冗談を言われるけど、申し訳ない思いもあります」
とハルコさんは言う。週刊朝日やAERAの製本も手掛けていた。
当時の同社の息づかいは、季刊「しま」(日本離島センター)の「島の精神文化誌」(5回連載)に詳しい。月の休みは2日間で、徹夜も当たり前。暮れの30日に仕事が終わって31日と正月三が日が休みだった。1月2日は宝島以外の関係者も集まる「宝友会」が毎年開かれた。
「島では現金収入がない暮らしをしてきたから、お金を使うのが楽しかった。一番大きな買い物が家。みんなこの周辺に家を買った。子どもができて孫ができて」
ハルコさんは言う。そうしてできた「宝島村」と呼ばれた人たちの集団は、昭和50年代には300人ほどに膨らんだ。