まずはこの試合をめぐるストーリーを簡単に紹介したい。

 猪木対アリは、日本のプロレス・格闘技ファンの間でいまなお語り継がれる、特別な試合だ。もっとも、その始まりは悪い意味での「伝説」だった。

 開始から終了までの45分間(1ラウンド3分で15ラウンド)、猪木がリング上に横たわり、アリの足を狙ってキックを打つという退屈な展開。判定の結果、勝負はドローに終わった。

 手に汗握る攻防を期待していたファンは、猪木の消極的なファイトに深く失望し、不満を募らせた。試合翌日にはあらゆるメディアが「世紀の茶番」と酷評している。その後、巨額ファイトマネーの支払いをめぐる訴訟も起こされ、新日本プロレスが社運をかけた一大イベントは散々な結果となった。

■後年に反転した評価

 猪木にとって思い返したくもない暗黒史になると思われたが、後年になってその評価は反転し、いつしかこの試合は猪木の誇るべき勲章になった。

 その最大の理由は、この試合が真剣勝負、いわゆる「リアルファイト」だったことが、さまざまな証言、検証によって認められたことにある。

 プロレスは、純然たるスポーツとは一線を画すショーである。日本ではその事実が当事者らによって頑なに否定されてきたが、90年代以降、総合格闘技(真剣勝負で行われる)におけるプロレスラーの相次ぐ敗戦と、選手や関係者による「カミングアウト」が重なり、今日ではほとんどのファンがプロレスの本質を正しく理解している。

 プロレスラーの最終的な使命は、勝つことではなく、観客を満足させることにある。そのこと自体は何ら恥じ入ることはない、プロフェッショナルの誇り高き目標だ。だが、猪木はこのアリ戦において、プロレスラーの本分を一時的に放棄し、真剣勝負を挑んだ。

 当時、多くの観客は猪木とアリの試合に筋書きがあるのか、そうでないのか、判断できないでいた。試合をめぐるルール交渉は最後まで紛糾し、そこにはリアルな駆け引きのにおいも漂っていたが、少なくとも多くの業界関係者は「世界的スーパースターのアリが、負ける危険を冒して猪木と真剣勝負をするはずがない」と固く信じていた。

 もし、猪木がアリと打ち合わせどおりのエキシビションマッチを遂行していたならば、今日、この試合の勝負論、歴史的価値はおそらくゼロに近い判定をされていただろう。

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異種格闘技戦でほとんど勝利した猪木