豊田亨元死刑囚は東大物理学科で究極の素粒子理論を研究する優秀な学生だった (c)朝日新聞社
豊田亨元死刑囚は東大物理学科で究極の素粒子理論を研究する優秀な学生だった (c)朝日新聞社
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 極限状況の3週間を、拘置所でどう過ごしたか。麻原執行後、豊田亨死刑囚と面会を重ねた伊東乾氏が寄稿した。

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 7月26日、先週の約束通り小菅の東京拘置所に向かった。特別交通許可者として日常的に接見するオウム事件の死刑確定者、豊田亨君と面会するためだ。書類を窓口に提出すると程なく年配の刑務官から「面会は出来ません」と告げられた。私が待合室にいる間に、彼を含む6人のオウム事犯の死刑が執行された。

 大学1年で知り合い東京大学理学部物理学科、同大学院で共に学んだ親友が突然行方知れずになったのは1992年3月。次に彼が私達の前に現れたときは地下鉄サリン事件の実行犯となっていた。

■筆記具を取り上げられ

 だが、弁護士から連絡があり私が接見するようになった99年時点では、自らの罪を認識し、完全に正気に戻っていた。教祖の過ちを認め、公判では「今なお自分が生きていること自体申し訳なく、浅ましい」と語り、深く悔いていたのだ。最高裁で死刑が確定した2009年以降は特別交通許可者として月に1度程度、接見し、様々な問題を共に考え、責任の所在や予防教育の必要を議論してきた。

 この夏もAIや機械学習の人道利用、あるいはロボット事故の責任所在など数理と倫理の境界、さらには古代バビロニアやエジプトの数学、ハンムラビ法典「復讐法」とそれを超える修復的正義などを話し合った。

 先週は時間がないとこぼしていた。手紙を書ききれないかもしれないと。夜間に筆記用具が使えなくなった。7月6日に麻原彰晃こと松本智津夫以下7人の死刑が執行された後、残された6人にその事実が告げられ、今の心境、特に自殺したいか問われるという信じがたいアンケートがあったらしい。以後は24時間常時監視、独房内から自殺に使われそうなもの、缶詰なども所持できなくなり、タオルは使用の度ごとに申請、夜間就寝後は筆記用具も取り上げられたと聞く(接見した弁護士による)。

■「命の限り贖罪を」

 そんな事情も知らず、分厚い本など差し入れても、豊田君は丹念に目を通し、正確な議論が記された端正な手紙を送り返してくれた。

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