かつて吉田茂は回想録で、各省からの予算要求を押し返すことができる機関がなくては、国家財政は破綻する、それが民主政治において最も重要な機関だと指摘。それが「わが国においては大蔵省である」と書いた。

 吉田は大蔵官僚に責任の自覚も求めた。「時に錯誤、誤解、行過ぎなどもあろうが、過って改むるに憚らぬだけの度量を常に持たねばならぬ」

 今の財務省にも通じる提言だが、財務省が「過った」のは今回が初めてではない。1990年代には度重なる接待汚職が問題になった。大蔵省(現・財務省)幹部が信用組合理事長から過剰接待を受けた問題に始まり、数年後には職員112人が大量処分される問題もあった。

 影響は大蔵省の地位低下にとどまらず、行政全体に及んだ。それまでエリートの代名詞だった官僚のイメージは泥にまみれ、官僚を志す優秀な学生が減ったとも言われた。政治家が人気取りのために官僚をたたく「官僚バッシング」という言葉も生まれた。そうした官僚たたきが、増税や歳出削減という、国民に不人気な政策課題の実現を難しくしてきた面がなかっただろうか。

 そして今回。文書改竄がどれほど財務省の信用をおとしめたか。国家に欠かせない機能をどれだけ弱め、財政の歯止めを失わせることになるか。

 財務省は本来、政権に耳障りが悪くても必要であれば物申し、世論を敵に回しても訴えるべきことを国民に訴えるのが仕事だ。その財務省が森友問題では「嫌われ者になることも辞さず」の態度を官邸に対して貫くことができなかった。それは結果として、日本の国家運営や私たちの社会保障の未来をも危うくしてしまうことにつながる。

 一つ言えるのは、安易に政権にしっぽをふるような財務省なら、もはや必要ない役所だということである。(朝日新聞編集委員・原真人)

AERA 2018年6月18日号