映し出されるのは、両親がおしゃべりをしながら食卓を囲んだり、風呂場で黙々とキムチを漬けたり、カラオケを楽しんだりする様子。意外かもしれないが、日々の生活は実ににぎやかだ。声を出して笑い合い、歌を歌い、音を立ててドアを閉める。手話といっても手だけを使うわけではなく、眉の上げ下げ、目の表情、大きな身ぶり手ぶりを伴って会話が成立している。音声によるコミュニケーションと何も変わらないのだ。

「聞こえている人たちには聴文化があり音声言語がある。同様に、私の両親はろう文化の中で、手話という固有の言語を使って幸せに生きています」

●たくさんの中の一つ

 コーダだけではない。

 視覚障害者、難病患者、在日外国人、LGBT……。親がこうした「マイノリティー」だという人は、多くの人の身近に存在するはずだ。気がついていないだけで、自分の親だって、あるいは自分だって、何らかのマイノリティーかもしれない。

 だとしたら、ボラさんのこの言葉に耳を傾けたい。

「この映画を観た人は、これは『平凡な家族の話』だと言います。私の両親は、確かに他の人とは違うかもしれないけれど、奇妙ではない。誰だって特別な存在で、誰もが平凡な家族だと私は思っています」

 どんな人も、どんな家族も、唯一無二の存在なのだ。

「哀れみや同情ではなく、偏見でもない。たくさんいる家族の中の一つだと見てくれたらうれしいです」

「マジョリティー」なんて、おそらくはもう、存在しないのだから。(ライター・越膳綾子)

AERA 2017年6月19日号