親の生き方が自分に当てはまらない私たちは、人生の「型」が何であるか描きにくい傾向が強い。ドラッグ、うつ疾患、果ては彼のように自死を選ぶ当事者が、一部ではあっても後を絶たないのは、漠然とした不安によるものもあるだろう。

 老齢に差し掛かり、もがきながらも自らの人生と向き合う姿を発信している人に会った。長谷川博史さん(64)。92年にHIV感染が発覚。当初から実名や顔を出して啓蒙活動を行う一方、ゲイプライドをうたう雑誌を創刊し、現在の潮流をつくった立役者だ。

 NPO法人「日本HIV陽性者ネットワーク・ジャンププラス」を創立し、陽性者の横のつながりを構築。「HIV感染症は恥ずかしい病気、可哀想な病気ではない」。そんなスタンスで精力的に活動を続けてきた長谷川さんだが、還暦を過ぎてから、深刻なうつ状態に陥ったという。

「こんなに長く生きる予定じゃなかった」

 治療薬の進歩でHIV感染症が「死ぬ病気」から「薬を飲み続ければ死なない病気」に変わったが、服薬の長期化で合併症が増えることも分かった。長谷川さんは腎機能が悪化し、人工透析を受けている。転居に際し、自宅から通える人工透析クリニックを探したところ、30~40軒からHIV陽性を理由に診療を拒否され続けた。中には「なんで、うちなんだよ!」と不快に荒らげる声を電話口で聞いたこともあった。そのうち受話器を持つのが怖くなり、部屋に閉じこもった。

「これは、もう死ねってことなんだ」。服薬もやめ、ウイルス量は跳ね上がった。

 長谷川さんを慕う多様なセクシュアリティーの友人たちが異変に気づき、連絡を取り合って様子を見に行ったり、話し相手になったりしたが、その後も気分の落ち込みが続き、ある日、腸管からの内出血による貧血を起こし、自宅で意識を失って倒れてしまった。その日はやっと見つけた人工透析クリニックの予約日。時間になっても現れない長谷川さんを心配した看護師がHIV主治医に連絡、大家が駆け付けて鍵を開け、救急車で病院に運ばれ、一命をとりとめた。

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