昨年の頭にフランスで『いま、会いにゆきます』のペーパーバックと『そのときは彼によろしく』の単行本がほぼ同時に刊行されることになって、あちらの出版社からプロモーションに来てもらえないか? という打診があったんですね。ぼくはこの小説の「寛太」同様、乗り物すべてに対して恐怖症を持っているので、かなりのためらいはあったんですが、それでも、とりあえずは「伺います」と返答しました。でも、いよいよその日が近づいてくると、やっぱりどうにも飛行機には乗れそうになくて、そのことを考えるだけでパニックになってしまい、結局は土壇場で断ってしまいました。一番落胆したのは同行することになっていたぼくの奥さんです。パリに行ける! ってものすごく楽しみにしていたのに、明確な理由(ぼくにとっては明確ですが)もないままにキャンセルですから。ぼくはいつだってこんな調子です。結婚して30年近く経ちますが、関東から出たことなんてほとんどない。旅行にも映画にもコンサートにも行けず、ひととの集まりにもほとんど顔を出さない。そうしていてさえ心や体を乱さずにいることはとても難しい。

 どうしてこうなんだろう? っていつも思います。なんでこんなに恐がりなんだろう? なんでこんなに弱いんだろう? って。その思いが、この小説を書き始めた一番の動機です。自分の弱さを包み隠さず描く。自己治癒のための告解。ぼくの小説はいつだってそうです。苦しくて苦しくて、吐き出さずにはいられない。『いま、会いにゆきます』で描いた弱い夫を、この小説でもまた描いてる。オブセッションだかなんだか知らないけど、そうせずにはいられない。いろんなところで言ってきたけど、『いま、会いにゆきます』の夫婦の別れは、ぼくにとっては母との別れなんですね。つねに死の影をまとって生きてきた母に対する、別離の不安。それがあれを書かせた。幼い頃から、ぼくは自分を母の保護者のように感じながら生きてきました。心の弱い母をぼくが守る。つねに気を配り、わずかな変化も見逃さず、死のシグナルを感じたなら、すかさずそこから母を遠ざける。そんなふうにして生きてきたから、母を亡くしてぼくはすっかりおかしくなってしまった。体重が15キロも落ちて、それ以来二度と戻らない。母の記憶が蘇っただけでパニックを起こしてしまう。写真も見られなければ、遺品にも触れられない。そんなことが何年も続いていたんだけど、もうそろそろ、そんな日々も終わりにしなければいけない、封印していた記憶を解いて、母の人生を、結婚と出産にまつわるエピソードを書き残しておかなければ――そんな思いが、この物語を描くもうひとつの大きな動機となりました。『いま、会いにゆきます』では触れることのなかった、夫婦の一度目の、真の別れを、この小説でようやくきちんと描き切ることが出来た。

 奥さんへの思い。母への思い。そして、さらには義母への思いがあります。

 義母は広島で生まれ、10歳の時に原爆で父親と兄を失いました。自身も被爆して、それがもとで60代で乳がんを発症し70代で再発。その後、長い闘病生活を経て亡くなりました。年齢が問題だったと言われています。ちょうど乳腺が発達する時期に被爆してしまった。なので、義母と同世代、昭和10年生まれ前後の女性たちが、かなりの割合で乳がんを発症している。被爆から数十年経ってもまだ戦争の影は付きまとっている。

 これってまるで「呪い」じゃないか、ってぼくは思いました。一度取り憑かれたら、一生その呪縛から逃れることは出来ない。遠い国の誰かが、よその国の誰かを「傷つけたい」と願い、それが飛行機に乗って世界中に運ばれてゆく。「呪い」は燃えさかる火となって、つましく、誰も貶めず、ただ分相応な幸せを願って生きている人たちの上に降り注ぐ。

 まだデビューするずっと前に描いた小説の中で、ぼくはひとりの女性にこんなセリフを言わせてます。

「わたしは彼が好きだった。彼は自分の弱さをもっと誇りに思うべきだったのに」

 ひとを傷つけるにはあまりに小さくひ弱な拳。奪うのではなく奪われる生き方。強さを信奉するこの世界では、こんな人間が自分を誇りに思うことはとても難しい。

 それでも、ぼくは、ずっとそんな人間を描き続けてきました。それは自分自身の姿でもあるし、多くの弱き人々の姿でもある。愛する者のために戦うのではなく 愛する者の手を取ってひたすら逃げ惑うことしかできない「生まれながらの避難民」たち。この小説は、きっとそんな人間たちの物語なんだろうと思います。