剣術修行の旅日記 佐賀藩・葉隠武士の「諸国廻歴日録」を読む(朝日選書より8月9日発売予定)

 諸国武者修行という言葉を目にしたとき、まず頭に浮かぶのは剣豪の宮本武蔵や塚原卜伝ではあるまいか。

 だが、武蔵は江戸時代の前期、卜伝にいたっては室町時代後期の人物である。その正確な事蹟はほとんどわかっていない。武蔵と卜伝の武者修行の旅や他流試合の様子はすべて剣豪小説の創作である。つまり、小説家の想像の産物なのである。

 かといって、筆者は必ずしも、
 「あんなもの、みんな作り事だ」
 と難癖を付けているわけではない。小説は小説としての面白さがある。とくに、吉川英治著『宮本武蔵』は名作であり、いまや不朽の古典といってもよい。筆者自身かつて夢中になって読みふけった。

 だが、時代小説は名作であればあるほど多くの人々に読み継がれるだけに、いつしか創作が史実として受け入れられてしまう傾向がある。「不敗の剣豪宮本武蔵」像などはその典型かもしれない。

 諸国武者修行や他流試合の実態が判然としないのは時代が古すぎ、確実な史料がないためだが、もうひとつ、実際には剣豪小説に描かれたような状況ではなかったと断言できる大きな理由がある。それは、当時はまだ竹刀や防具が実用化されていなかったことである。

 真剣で他流試合をすればまさに斬り合いであり、殺し合いである。木刀を用いた試合でも大怪我をするし、打ちどころが悪ければ死亡するであろう。こんな状況であれば他流試合が気軽に、盛んにおこなわれていたとはとうてい信じられない。

 しかし、江戸時代の中期以降、事情が劇的に変わった。現代剣道と基本的に同じような竹刀と防具がくふうされ、剣術道場で使用されるようになった。試合をしても危険がなくなったのである。

 以来、試合形式の打ち込み稽古が採用されるにともなって剣術は隆盛を迎えた。剣術の流派は当初せいぜい三、四流にすぎなかったが、次々と枝分かれして新流派が生まれ、幕末期にはおよそ七百にまで激増した。そしてこれが、諸国武者修行と他流試合の流行の引き金となった。

 従来、諸藩や剣術の各派は他流試合を禁止していた。独特の閉鎖主義もあるが、なにより危険だったからである。

 ところが、竹刀と防具の登場により他流試合は危険ではなくなった。また、次々と誕生した新流派は自流の宣伝のためもあり、積極的に武者修行に出かけ、他流試合を求めるようになった。こうなると旧流派も安閑としていては門弟を奪われてしまう。自己改革をせざるを得なくなった。

 天保の末年、ついにほとんどの藩と流派が他流試合を解禁した。以後、武者修行と他流試合が流行のようになった。

 『諸国廻歴日録』(以下『日録』と略記)は、佐賀藩士牟田文之助が嘉永六(一八五三)年九月に佐賀城下を出立して安政二年(一八五五)九月に帰国するまで、およそ二年間にわたって現在の三十一都府県を踏破し、各地の藩校道場や町(個人)道場で他流試合をした記録である。

 『日録』によるとこの時期、いかに多くの武者修行者が各地を旅していたかがわかる。

 たとえば安政元年四月、文之助は滞在中の江戸藩邸からあらためて修行の旅に出るが、この月、ほかに剣術修行でふたり、槍術修行でふたりの佐賀藩士が藩邸から旅立った。国許の藩士も加えるともっといたろう。

 この傾向は他藩でも同様だった。文之助は訪れた先々で、多くの他藩の武者修行者と出会っている。各地で知り合った藩士に別な藩で再会することも多かった。全国を廻歴していた武者修行者の数は驚くべきといってよい。

 『日録』の記述を読むと、当時の武者修行の旅や他流試合の実際の姿が手に取るようにわかる。すでに仕組みや手続きが完成していたのである。

 そして、その実情を知ると時代小説、とくに剣豪小説のファンは落胆する面があるかもしれない。なかでも「他流試合」の実態には拍子抜けするであろうが、ここでくわしく紹介する余裕はないので、本書に譲ろう。

 とはいえ、たんなる幻滅で終わるわけではない。当時の武者修行者の実際の姿を知ると、なんとも愉快になってくる。それどころか、気持ちが明るくなってくるといおうか。

 というのも武者修行の旅に出て、各地で他流試合をしていた諸藩の藩士たちがその後、明治維新の原動力になったことに気づくからである。武者修行や他流試合は明治維新の下準備であり、地ならしのひとつだったといってもよいかもしれない。