2013年3月26日、深夜の東京・渋谷のスクランブル交差点。ブラジルワールドカップ・アジア最終予選の日本対ヨルダンの試合がアンマンで行われ、日本が勝てば2試合を残してワールドカップが出場決まるはずでした。しかし結果は1-2で敗戦。



 スクランブル交差点で日本代表の勝利を祝う若者たちを見ようと渋谷に出かけたフリーライターの清義明さんは、到着後にこの結果を知って「今日はないな」と失望したといいます。ところが終電もなくなった渋谷駅前には、日本代表のユニフォームを着た若者たちの姿が集まり始め、ほどなく数百人規模に膨れ上がっていきます。



 交差点の歩行者用信号が青になると、警察官が交差点の左右にびっしりと立ち並び壁をつくる中、交差点に突入して、ハイタッチを繰り返す若者たち。日本代表コールを歌い、飛び跳ね、走り回って、またハイタッチ。信号が赤になると警察官の誘導で歩道に上がるものの、青信号でまた交差点めがけて走り出し、同じことを繰り返します。その数はどんどん増えていき、彼らは無邪気に、楽しそうに、見知らぬ者同士で盛り上がっているのです。



 この光景を目の当たりにして清水さんは、「本当に試合に負けたチーム(日本代表)のサポーターなのか」という疑問が湧き上がってくるのを抑えることができなかったといいます。



 2002年のワールドカップ日韓大会以来、大勢で群れる若者は「ぷちナショナリスト」化してきたのではないかと危惧していたという清水さんは、近著『サッカーと愛国』の中でこう綴ります。



「サッカーとナショナリズムには強い親和性がある。サッカーには、ひとつの同じチームを応援する人たちの『共同体=ネーション』をつくる回路があるからだ。村と村との戦いにサッカーの起源があるとよく言われる」



「見知らぬ人同士が、自分たちを一つの仲間のように意識するのはとても難しい。そのために、歴史や文学のようなものが動員される。そして『私たち』とそれ以外の人を分けていく。敵と味方を名実ともに見せつけるスポーツはこの『私たち』の確認にうってつけだ」



  本書には、様々なサッカーとナショナリズムの複雑な関係が描かれています。日本代表と韓国代表の試合の際のライバル意識から生まれる嫌韓のムードと、それをあおる悪意に満ちた人々や、人種差別をなくすために様々な取り組みを行っている欧州のサッカー界事情など、ほとんどの日本人が意識していない世界がそこにあります。



「人々の団結と共闘の力となり、心の拠り所となるのが良いナショナリズムであれば、排他的な意識を持ち、敵をつくるのは悪いナショナリズムであり、サッカーはいつもその境界線上にあると言える」(本書より)と、長年競技場に足を運び、世界中でサッカーとサポーターを見続けてきた著者は書いています。



  奇しくも、2018年にロシアで開催されるサッカーワールドカップのアジア最終予選がはじまり、4.5のアジア枠をめぐって12か国で約1年間にわたり熱い戦いが続きます。日本代表のプレーを応援する時、私たちが心の片隅に留めておかなくてはならないことを、この本は教えてくれます。