人生の終わりにどんな本を読むか――。写真家・文筆家の平民金子さんは、「最後の読書」に『万延元年のフットボール』を選ぶという。

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 本を読むようになったのは高校を卒業した18歳の頃からで、それまでは活字を追う習慣が全くなかった。

 しかし就職も進学もせずにいたら毎日がひまで味気なく、せめて安上がりな趣味を持とうと本屋で適当な文庫本を買って読み始めた。読書はひまつぶしにはなるのだが、ひまつぶし以上のものではなかった。

 そんな時に気軽な気持ちで手にとったのが、当時ノーベル賞の受賞でメディアに名前が出まくっていた大江健三郎なる作家の新潮文庫版の初期短編群であった。一読し、なんやこれ……と息を呑んだのが文学との出会いであったと思う。

 私にとって大江健三郎の初期作品は、10代の自分にはとても制御できない己の内面に並走してくれる、ひねくれた相棒のような存在だった。けれどある日古書店で豪華な箱入りの『万延元年のフットボール』を買い、これまで接したことのない分厚さの物語を読了し、私は理解した。

 小説は内面に並走してどうのこうのといったちっぽけなものではなく、もっと圧倒的な何かなのだ。小説はただ小説として、私なんか遠く及ばない場所に屹立している。

 そんな『万延元年のフットボール』を人生最後の一冊としてぜひ読み返してみたいのだが、たぶん死ぬ前は色々と準備(メモ帳にあるエロサイトへのリンク集なんかをしっかり破棄しておかないと妻や子供に馬鹿にされてしまう)で忙しいので重厚な小説を読んでいる心の余裕なんてない気がする。

 私は本の中身は読まず、粟津潔がデザインしたどこかの山脈の等高線が描かれた『万延元年のフットボール』の箱を眺め、この表紙の模様って手に持ってくるくる回すとウルトラマンのオープニングを思い出すんよな、などとぼんやり考えている気がする。そしてページをめくって冒頭だけに目を通すのだ。そこにはこんな言葉が書かれている。

「誰もが死ぬんですよ。そして百年もたてば、たいていの人間が、どんなにして死んだかを詮索されはしません。自分のいっとう気にいったやり方で死ぬのが最上ですよ」

週刊朝日  2023年4月28日号