当時、お茶の水女子大の4年生だった日高麻子は、どうしても集英社で『MORE』の編集に携わりたくて、応募した。
当時、お茶の水女子大の4年生だった日高麻子は、どうしても集英社で『MORE』の編集に携わりたくて、応募した。

 今は昔。

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 1977年の風薫る5月、東京・茗荷谷にあるお茶の水女子大学のキャンパス。2年生の日高麻子は生協の書店に急いでいた。

 男女比3対1の鹿児島県の鶴丸高校出身の麻子は、入学の前年に光文社から創刊された『JJ』の熱心な読者だったが、しかし、なにかもやもやしたものを感じていた。

 当時、女子大生はみな『JJ』を買って、そこで展開されている神戸発の「ニュートラ」あるいは横浜元町発の「ハマトラ」と呼ばれるコンサバ系ファッションを競って身につけていた。この雑誌は、実際の女子大生が次から次へと登場している。

 慶應、青学、神戸女学院、甲南女子大、立教、清泉女子大……の子たちがくったくのない笑顔でおおむね次のようなコメントを出している。

「パパのポルシェで休日ドライブするのは楽しい」

「今日のバッグは母に買ってもらったシャネルのバッグ」

 エリートをつかまえるか社長夫人になるか、いいお嫁さんになるのが至上の価値観。結婚しても仕事を続けるなんてもってのほか。そのために可愛いファッションに身をつつみ青春を謳歌する。

 が、なぜか、お茶の水女子大や、早稲田の女子学生は、誌面に登場しないのだった。

 郷里の鹿児島から、東京の大学をうける際、親から女子大しかうけさせてもらえなかった。慶應にいきたかったが諦めてお茶の水女子大に進学した。一人暮らしなどもってのほかということで、大学の寮に入寮した。同じ鶴丸高校からお茶の水女子大に進学した同級生は、原宿の東郷女子学生会館に入寮した。

 その友人が興奮した面持ちで麻子に言ったのだ。

「凄い雑誌が出たわよ!」

 その雑誌を買いに、麻子はキャンパスの中にあった生協に急いでいたのだった。

 手にとるなり、衝撃をうけた。

 キャッチフレーズは「自立する女性のための雑誌」。

『MORE』創刊号だった。

 巻頭のインタビューは、サルトルとも交流がある作家のフランソワーズ・サガン。

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下山進

下山進

1993年コロンビア大学ジャーナリズム・スクール国際報道上級課程修了。文藝春秋で長くノンフィクションの編集者をつとめた。聖心女子大学現代教養学部非常勤講師。2018年より、慶應義塾大学総合政策学部特別招聘教授として「2050年のメディア」をテーマにした調査型の講座を開講、その調査の成果を翌年『2050年のメディア』(文藝春秋、2019年)として上梓した。著書に『アメリカ・ジャーナリズム』(丸善、1995年)、『勝負の分かれ目』(KADOKAWA、2002年)、『アルツハイマー征服』(KADOKAWA、2021年)、『2050年のジャーナリスト』(毎日新聞出版、2021年)。元上智大新聞学科非常勤講師。

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