仕方ないのでキャンバスに向かいます。強迫的なキャンバスに! そしてできたのが「寒山拾得」の絵です。今までのように描く絵の主題も様式も考えないまま、描きたくないので殴り描きです。そんな嫌々描いた「寒山拾得」の絵が次々と出来ていきました。絵など描きたくないという究極の心境になった時、何かがパッと開いたんです。あのまま放っておけば終日ソファに寝ころがっていて、ついに絵の生活から離れてしまう、そんな僕の内なる危機感が「寒山拾得」に化身したんですかね。そういうと寒山は文殊、拾得は普賢の化身です。仏教徒のセトウチさんならあり得る話ですが、僕にはそんな菩薩(ぼさつ)との縁はございません。

 ただ、考えを捨ててソファに何日も頭を空っぽにして一日の過ぎる時間が遅いなあ、地球の自転が止まっているんじゃないかな、と思いながら、これがコロナとの共生共存かいな、とぼんやりしていただけです。

 老齢になると時間の進行が早くなるので、残された貴重な時間を有効に過ごすべきだと言います。だけど僕にとっての有効時間は無為なぼんやりした時間のように思います。死は黙っていても宣告されています。生き切るということは空っぽになるということではないでしょうか。ようわかりませんが。

 さあ、また来週。

■瀬戸内寂聴「ヨコオさんの『寒山拾得』の方がずっと素敵です」

瀬戸内寂聴

 ヨコオさん

 ほんとに、いやな世の中になりましたね。何といっても、国民が何があっても、健康で働けることが何よりです。

 コロナが一向に衰えず、右をむいても左をむいてもコロナの患者で、ひやっとします。寂庵でも、一番若い人が、早くかかって、どうなることかと、案じましたが、おかげさまで治るのも早く、もうすっかり元気になってくれ、ほっとしております。東京の親しい知人も、日ごろ丈夫なのに、あっという間もなくかかって、治療中です。ほんとに油断もすきもありません。

 まさに百年前、スペイン風邪が世界をかけめぐり、バッタバッタと人が殺されたことを、子供心に、大人から聞いて、ぼんやり覚えております。

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