われわれは世の中のために生きる以前に、自分のために如何(いか)に生きるかをもっと腰を据えて考える必要があります。どうもわれわれは世間の風潮に振り回されて、自分を見失っているところがあると思います。こんなことを書いている僕自身がすでに時事的なことを語っているような気がしないでもないです。現代社会を語ろうとする時、不思議と気分が滅入(めい)ってしまいます。人間として生まれてきた以上、楽しく生きたいと思うじゃないですか。その楽しみを奪(うば)おうとするのはいつも不穏な社会的情況です。

 セトウチさん、このへんでパッと明るく、暗い世間から離れて、面白い話をして下さい。文学も芸術も、ある意味で現実からの逃避のために存在しているものだと思います。またいつか、セトウチさんも、しましょうよ、とおっしゃっていた死後の話などもうんと楽しくできるはずです。死は生き物全てが避けられない事実です。この事実を語り合うということは、われわれのテーマかも知れませんよ。

 さて、そちら京都は暑いんじゃないでしょうか。祇園祭の見物にいった時は熱中症寸前でした。僕は熱中症に三度ばかりなって病院で点滴を受けました。今年はまだなっていません。同じ暑いなら、もっと熱い温泉に行くつもりです。北朝鮮ではないですよ。そーいえばセトウチさんと城崎温泉へ行きましたね。そんな話でも如何ですか。

■瀬戸内寂聴「このまま百まで生きたらどうしよう」

 ヨコオさん

 おっしゃる通り、時事的な出来事は、たちまち、時の流れに巻きこまれ、時勢から、また、吾々の記憶から去ってしまいます。どんな記憶も、体験した当人が死んでしまえば残りません。

 戦争も天災も、過ぎてしまえば、時事的な出来事となります。ただ、それを味(あじわ)った人々が生き残れば、その人たちの記憶が語りつぐため、歴史となって残るようです。

 あの長い戦争の生き残りが、私であり、ヨコオさん、あなたです。戦場に早く征かせる目的で、当時学生たちは卒業を半年早め、九月に卒業させられ、男の大学生たちは、戦場につれて行かれました。女の学生だった私は半年早くなった婚約者との結婚をして、男の仕事場の北京へ行きました。女子大の卒業式にも出なかったのを悔いもしていませんでした。

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