ここは日当たりの良い場所に、掃除の行き届いた墓が並び、墓地にありがちな陰気なイメージがないのがいい。墓石は比較的新しいようで、後の時代に造り直したか修復したものだろう。特に私の家は次男・信雄の直系の子孫だから、信雄の墓にお参りできるのはありがたいことだ。信雄の墓は他にもあるが、京都はお参りするには便利な場所でもある。

 信雄は凡庸以下の人物として描かれることが多い。三谷幸喜監督の映画「清須会議」ではものすごく軽い、おバカな殿様として描かれていた。実際、信雄は合戦では大した働きをしなかったが、半面、能の名手であったり、土地政策に手腕を発揮したりもしている。戦時よりも平和時向きの人だったのだろう。

 秀吉と衝突して流罪になったり、関ケ原の戦いの後に改易(かいえき)されたりと、結構ひどい目にもあっているが、しぶとく復活して73歳まで生きた。

 信雄はまるでさえないイメージの人である。しかし、彼がかっこ悪くともジタバタと生き延びたおかげで、私が今ここにいるとも言える。そう考えれば、感謝しなければならないだろう。信雄は、信長のような英雄でもなければ人気者でもない。しかし、私にとっては大切なご先祖の一人なのである。

 総見院の中には重要文化財である信長の木像があり、その目の鋭さが印象的だ。またここには柏原(かいばら)藩主と天童藩主が連名を記した掛け軸がある。これを初めて見たときはちょっと驚いた。信長の嫡流で大名家として残ったのは、信雄から続くこの二家だけなのだが、今は両家に密接なつきあいはないからだ。私は柏原藩主の末裔だが、天童藩主の末裔も健在で、どちらも首都圏に住む。4歳下の彼とはたまに会って飲む程度のつきあいだが、せっかく生き残った二家である。もう少しつきあいが深くなったら、ご先祖が喜ぶような気がする。

週刊朝日 2015年8月14日号