亀井家第16代当主「昭和天皇に東宮侍従として仕えた祖父の日記を『実録』のために貸出」 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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亀井家第16代当主「昭和天皇に東宮侍従として仕えた祖父の日記を『実録』のために貸出」

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週刊朝日

 亀井家第16代当主の亀井茲基(これもと)氏は、先祖の偉業の1つとして昭和天皇に東宮侍従として仕えた祖父の話をこう語る。

*  *  *
 幕末に津和野藩(島根県津和野町)はピンチとなります。4万3千石の小さな藩なのに、となりは倒幕の大藩、長州藩です。幕府軍が長州征討に来たときには、完全に板挟み状態でした。

 中立でいたかった津和野藩ですが、幕府軍の一員として組み込まれてしまいます。その上、幕府軍の目付(めつけ[指揮官])一行が津和野城下に入り、それを知った長州は津和野に攻め入ろうとしました。

 それほど広くない盆地に広がる津和野の町は、数発の砲弾で火の海になってしまいます。最後の津和野藩主、12代・茲監(これみ)は、どうしたと思いますか? 幕府軍の目付を長州に引き渡したのです。その後、目付を無事に取り戻してもいる。粘り強い外交で幕府と長州の双方を説得し、津和野を戦火から守った。身内ですけど、茲監は大変な名君です。

 次の13代・茲明(これあき)については、若くして亡くなっているし、話題の少ない代だなと思っていました。

 ところが、今から30年以上前かな。蔵の整理をしていると、茲明の描いた絵や使っていたカメラが出てきました。茲明は、ベルリン大学に留学して美学・美術史を専攻するかたわら、カメラ技術も身につけていたんですね。そして、留学から帰ってしばらくすると、日清戦争がはじまった。

 茲明は虚弱体質でしたが、それでも国のために何かしたいと考えました。そこでやったことがすごい。私費で写真班を結成して、従軍撮影をしたのです。日本初の従軍写真家でした。

 当時のカメラはとても大きくて重い。フィルムではなくて、ガラス乾板の時代です。自動車もないですから、大八車8台に、カメラ7台とガラス乾板や機材を積んで戦場へ向かいました。写真の専門家がおっしゃるには、午前1枚、午後1枚撮れればいいほうだったようです。やらせの元祖みたいな写真もあります(笑)。

 捕虜を雇って戦地を進むのだけど、キツすぎて捕虜が何人も逃げ出したらしい。もちろん、過酷なのは茲明も一緒でした。従軍撮影の無理がたたり、帰国して1年ほど後に、35歳で亡くなりました。

 茲明の撮ったガラス乾板は、第2次大戦中に陸軍が従軍写真展を開くというのでお貸ししました。すると、写真展の会場が空襲にあって、ガラス乾板はぜんぶ灰になった。幸い、茲明の息子の茲常(これつね)がすでに写真集にして出版していましたから、今でもほとんどの写真を見ることができます。

 茲常は私の祖父です。東宮侍従として皇太子時代の昭和天皇に仕えました。欧州訪問にも供奉(ぐぶ)しています。先ごろ話題になった「昭和天皇実録」のために、祖父の日記をお貸ししています。

 父の茲建(これたけ)は、大学生のときに「左翼学生」として治安維持法違反で逮捕されています。当時は「赤色華族」としてだいぶ騒がれたようですが、この一件については生涯語ることはありませんでした。大学卒業後の父は、興銀に勤めるサラリーマンとなりました。

 うちは名前に代々「茲」がついていますが、これは跡継ぎだけ。政治家をしていた私の弟・久興(ひさおき)に茲はついていません。久興の久は祖母・久から、興は興銀からとっているんですよ。

(構成 本誌・横山 健)

週刊朝日  2014年10月17日号


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