オウム真理教が起こした事件は数え切れない。犯人の逮捕に至らないものや、犯人を特定してもなお、真相がわからないものも多い。国松警察庁長官狙撃事件もその一つだ。

 1995年3月30日、国松孝次警視庁長官(当時)が、自宅マンション前で銃撃され、重傷を負った。全国警察のトップが狙撃されるという前代未聞の事態は、国内外に衝撃を与えた。

 事件の10日前の3月20日に地下鉄サリン事件があり、22日に教団施設への一斉捜索が始まったばかり。警視庁公安部は、当初から「オウムの犯行」との見方を強めていた。

 犯人が特定できないまま1年余が過ぎた96年5月、

「自分が撃ちました」

 と供述したのは、教団の在家信徒で、警視庁の現役巡査長だった。

 だが肝心の捜査は、巡査長が「銃を捨てた」と供述した神田川から銃が見つからなかったこともあり、進まなかった。巡査長は教団に捜査情報を漏洩したとして懲戒免職になったが、逮捕はされなかった。

 事態が動いたのは、それから約8年も過ぎた04年7月だった。警視庁公安部は先の元巡査長とオウムの教団幹部ら計4人を逮捕した。逮捕に踏み切った根拠は、元巡査長から押収したコートの存在だ。コートの裾の小さな穴を鑑定したところ、銃の発砲で付着したとみられる火薬の成分が検出されたのだ。

 元巡査長はこのとき「自分は撃っていない。幹部に似た男、自分のコートを貸してくれと言われて渡した」と供述。警視庁はそれをもとに元巡査長を含む逮捕者4人をいずれも補助役と認定。別の元教団幹部を実行犯とする筋書きを立てた。

 ところが元巡査長は検察の調べに対して「自分が撃ったかもしれない」とまたも供述を翻した。結局4人全員が不起訴となった。

 その後も捜査は続いたが、10年3月30日、延べ48万2千人もの捜査員を投入した銃撃事件は時効を迎えた。

 時効の日、警視庁は「捜査結果概要」という14ページに及ぶ異例の報告書を公表した。報告書は、容疑者逮捕ができなかったにもかかわらず「オウムの犯行」を断定する内容だったため、警視庁は当時大きな非難を浴びた。

 報告書はこう結論づけている。「本事件は、教祖の意志の下、教団信者のグループにより敢行された計画的、組織的なテロであった」。

「オウムのテロ」と断定しながら捜査の全容解明ができなかった警視庁――。国家を揺るがしたテロ事件は、犯人も目的もわからないままだ。

※週刊朝日緊急増刊 オウム全記録


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