2004年、教育困難校だった都立水元高校に校長として着任し、3年間で中退率を激減させた栗原卯田子先生。その後、中高一貫校になったばかりの都立小石川中等教育学校、そして私立の伝統校である成城中学校・高等学校の校長を歴任。学校は違っても、生徒をよく観察し、生徒の意見に耳を傾けながら自分の考えをはっきりと述べる”卯田子流”で、数々の難題と向き合ってきた。2021年に退職し教師という重責から離れたが、栗原先生はやはり「先生」と呼ぶのが一番ふさわしい。連載第3回「伝統の男子校・成城中高「初」の女性校長として、落ち込む志願者数をV字回復させた挑戦」に続く最終回は、原点となった離島・八丈島での教員時代を振り返る「八丈高校編」。

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 子どもの頃から数学が得意だった栗原先生は、親や学校の先生から「おまえが男だったら」とよく言われたという。「じゃあ、どうしたらいいんですか」と反発すると、「公務員になればいい」という答えが返ってきた。当時はまだ男女雇用機会均等法が制定されていない時代。男女には給料の差があった時代も、公務員だけは平等だった。

「大学院での研究が面白くなってきたので研究を続けるという選択肢もあったのですが、早く独り立ちしたかった。研究者か教員か迷いながら、結果としてこの道を選んで正解でした」

 1976年、晴れて都立高校の数学科の教員となったが、同期の女性は3人だけ。その後赴任した先々で「数学科の女性教員は初めて」と言われたという。

「公務員は男女差がないというものの、実際の現場はまだまだ男社会だと実感しました」

 都内で5年間教員を務めた後、離島・八丈島の高校への異動を希望する。「都内に進学校を作りたいので協力してほしい」という要請を断ってまで、へき地の学校にこだわった。

「大きな学校では自分のことだけやっていればすむけれども、学校の全体像が見えてこない。先輩の先生から、学校組織の仕組みは学校規模が大きくても小さくても同じ、小さい学校だと運営にもかかわれるから、学校を知るなら島に行くのがいいと聞いていました。私の高校時代は学園紛争のまっただ中で、学校って何なんだ、というのが常に頭にあって、学校を知りたいという願望がありました」

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柿崎明子
ライター 柿崎明子

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