2番目の子どもは八丈島で出産した。だが、産休代替の教員が見つからない。困り果てていると、たまたま高校の教員免許を持っていた島在住の獣医師が名乗り出てくれた。

「女性の獣医師さんだったから、女同士苦労をわかってくれたんでしょう。持っていた教員免許は理科だったので、数学をスクーリングで学びながら教壇に立ってくれました」

 栗原先生もプリントを作ったり、生徒指導の相談にのったりして産休代替の先生を支えた。

 八丈島には6年間滞在した。引っ越しや出産や育児では、島の人に助けられたという。

「上の子は保育園と小学校、下の子は保育園を島で過ごしたので、故郷は八丈島と言っています。私にとっても八丈島は、教員としての原点です」

 今でも民宿を継いだ教え子などから「今度はいつ島に来るのか」と、手紙やメールが届いたり、教え子が作った島の農作物が届いたりするという。

 栗原先生は八丈島の後、いくつかの学校で数学教師、教頭として赴任し、2004年から水元高校、小石川中等教育学校、成城中高と、合わせて3校の校長を務めている。いずれも「女性初」という冠がつく。

「終わってみると、どの学校も本当に楽しかったですね。その学校での経験が次の学校へと生かされて、私にとっては全部繋がっているんです。学校教育とは何か考え続けてきましたが、まだ答えは出ていません。ただ言えることは、本当は誰もが幸せに生きたいと思っていること。学校という居場所で過ごしたことが、人生のプラスになっていく。たとえ失敗しても。そういう場面をたくさん見てきて、生き方の土台を作るのが学校教育の本質ではないかと思っているんです」

 これまでを振り返り、これからの若い人にこうメッセージを送る。

「私自身は、多様な学校で教師として多くの経験をさせてもらいました。語りつくせるものではなく、失敗もあったし、たくさん寄り道をしました。でも、学びに終わりはないし、よい人生体験をしたと思います。だからこそ、生き方を模索している若い人たちに言える。『寄り道だって、かけがえのない君の人生だよ』と」

(文/柿崎明子)

連載第1回「校長就任1年で「中退率」半減 評判“最悪”だった都立高校をよみがえらせた名物校長の3年間」はこちら

○栗原卯田子/東京・中野区出身。1976年東京学芸大学大学院修了(教育学修士)後、東京都立高校の数学科教員に。八丈高校、小松川高校、本所高校などを経て、閉校が決まっていた水元高校(葛飾区)に最後の校長として着任。その後は中等教育学校を併設した小石川高校(文京区)の第20代校長として高校の最後を見届けつつ、並行して小石川中等教育学校の校長を6年間務めた。定年退職後、8年間にわたり成城中学校・高等学校(新宿区)の校長に就任し、男子伝統校を復活させた。

著者 開く閉じる
柿崎明子
ライター 柿崎明子
1 2 3